満足した顔でマシューは帰って行った。
 それから数時間、プライベートな話を許さない忙しい時間が続いたが、まったく自分たちはいつもどおりだった。
 まるで何事もなかったかのように。ただお互い、決して目を合わせずに、「いつもどおり」の演技をするのに必死だったというだけで。
「……お前に生き別れの弟がいるってのは昔から聞いてたが、それが二人だったとは聞いてないぞ」
 営業終了後、店内の閉め作業もあらかた終わり、残っているのはほんの数人となった。事務所にいるのもどうやらフランシスとアーサーのみらしく、扉の向こうからはやや赤裸々な話題が漏れ聞こえていた。
「忘れてたんだよ、真剣に」
「あの気の弱い方? かわいそうになぁ……お前って昔っからアルフレッドアルフレッドだったんだな」
 で、どうすんのよ、とフランシスが問いを発するのを、遮ることもできずに、ドアノブを握ったまま、アルフレッドは話の切れ目を待った。
「何が」
「あいつ、なんでもない顔してたけど、ほんとにお前が隠してたこと知ってたとは思えねぇな」
「知ってたんだろ。あいつはマシューのことも俺のことも覚えてたんだ。そうに決まってるんだよ、じゃなきゃあそこであんなふうに振舞えるわけないだろ? 俺の演技なんていっつも……っバレバレなんだって、鼻で笑われた気がした」
 自嘲するように彼は続けた。
「遊ばれてたのは俺の方なのかな……。あいつが弟だからって悩んでた俺を、あいつはからかって遊んでただけなのかもしれない」
「その言い方、まるでお前があいつをからかおうとしてたみたいだぞ」
 どきり、とした。アーサーに限ってまさかと思った。けれど片付けの合間合間に、押し込めようとしても沸き上がってくる懐疑。
 実の兄であることも知らず、彼の兄弟愛に舞い上がって欲情して溺れてハマって抜け出せなくて、本気になった馬鹿で哀れな弟。今までアーサーがそんな風に自分を軽蔑していたとしたら? 考えただけでぞっとした。
 だが、アーサーはあっさりそれを否定した。
「ちげぇよ……そりゃ、最初はどうしようかと思ったけど。ほんとのこと言った方があいつのためかもとか、今ならたった一夜の過ちで済むかもとか……でも、怖くなったんだ。『たった一夜の過ち』で済まされるのが。俺は自分でも歯止めがきかないくらい、自分でも怖いくらい、あいつのことが好きになってたんだ……。今更兄弟でしたなんて言って、軽蔑されるのが怖かった……でも、とっくにあいつはそんなの知ってて、ずっと俺を心の中で嘲笑ってたんだな……さぞかし見物だったろうよ、いつまで経っても『兄弟だ』って言おうとしない浅ましくて汚らしい俺は」
 違う、と叫びたかった。
 そんな風にアーサーが一人で被害者ぶっているのは本当に卑怯だと思った。辛いのは、苦しいのは自分だけだとでも思っているのか?
 だが、違うと叫んで、それからどうすべきか分からない。
 兄弟だったとその事実を知って、何事もなかったかのようになんか振舞えない。だが、ここで逃げてしまえば、もう二度とアーサーの傍にはいられないのだと、表面だけの付き合いしかできなくなるのだと、そんな気がしていたから、アルフレッドは気持ち悪いリズムを刻んで逸る心臓を押さえつけて、長くため息をついた。
 コンコン、と軽やかに聞こえるようノックを二回。ややあって、どーぞー、とフランシスの気の抜けた声がした。
「アーサー、帰ろう」
 にこりと、営業スマイルを顔に貼りつけて何気なく言う。これは避けては通れないのだ。「一緒に帰る」というのが「いつもどおり」なのだから。あくまでも「いつもどおり」は踏襲しなければならない。でなければ本当に、今日でその「いつも」が終わってしまう。
「あ……」
 今にも泣きそうな顔で口を開きかけたアーサーの背を、いやに大人びた顔でフランシスがぽん、と叩くのが見えた。それで腰を上げたアーサーを、自分でも気づかないうちに冷ややかな目で見下していた。
 今日は晴れそうだねとか今夜は暇かなぁとか、そんな毒にも薬にもならない他愛のない話を必死で選びながら、アルフレッドは漫然と足を動かしていた。
 このままアーサーを家に送り届けて、さっさと帰って寝てしまうつもりだった。たとえ形式的にでも「いつもどおり」を踏襲し続けていけば、いつの日にか二人のわだかまりも消えて、また以前のように心から笑い合えるかもしれない。
 だが、敢えて避け続けたその話題に先に触れたのはアーサーの方だった。
「マ……、マシューのやつ、元気そうだったな」
 思わずまじまじと彼の顔を凝視してしまってから、慌てて会話にふさわしい笑みを形づくった。アーサーも、ぎこちない笑顔を顔に貼りつけていた。
「そうだね」
「懐かしかっただろ、お前らはほんとに、仲が良かった」
 ああ、とアルフレッドは心が冷えていくのを感じる。
 アーサーはアルフレッドの、「騙されてなどいなかった、アーサーの虚偽などお見通しだった」とうそぶくつまらない意地、虚勢にまんまと乗っかって、アルフレッドを騙し続けた罪をなかったことにしてしまおうとしている。
 そうして自然に「あるべき姿」への矯正を謀るつもりなのだ。まるで最初の最初から、二人の間には兄弟の思慕以上の感情など存在しなかったかのように。
「覚えてるか? 昔お前らがすごい喧嘩して――」
 返事ができなかったアルフレッドに気づかなかったかのように、アーサーは口を動かし続ける。二人の思い出がそれでどんどん塗り替えられていく気がして、彼の口を塞いでしまいたくてたまらなかった。
「そうだ、うちにまだその時のアルバムがあって、見に来るか?」
 やがて名案を思いついたというように、ぱっと顔を輝かせてアーサーが言った。
 なんだろう。口の中が苦い。
「……遠慮しておくよ」
 やっとそれだけを言った。なぜだろう、確かに昨日までは愛しくて愛しくてたまらなかった相手なのに、どうして今は、こんなにも憎らしい。
「あ、けどそうだ、渡したいものがあって……」
「今度にしてくれるかな、今日はもう疲れた」
「そ、そっか……」
「じゃあ、また明日……兄さん」
 ぽつりと言い聞かせてみたそれは、意外とすとんと胸の中に落ちた。
 ああ、大丈夫。明日からもまだ生きていけるかもしれない。
 ほっとして顔を上げ、踵を返しかけたところで、アルフレッドはぎょっとした。
 ぽろぽろと、透明な雫が、彼の白磁の肌を伝っていた。
「ア……アーサー?」
「ごめん、なんでもない……おやすみ」
 そのままマンションのエントランスに消えようとする背中を、慌てて追いかけた。
「なんでもないわけないだろ!」
「なんでもないって言ってるだろ!」
 ぐ、と肩を掴めばバシリと振り払われた。軽い痛みが手の甲に走る。
「なんなんだよ君は……そうやって何もかも全部自分一人で抱え込もうとして……」
 言っているうちに感情が高ぶってきて、まだアーサーを糾弾する準備などこちらにはできていなかったというのに、口をつく本音は止まらなかった。
「今回のことだってそうだよ、さっさと『俺はお前の兄なんだ』って言っちゃえばよかったのにさ、君はまた悶々一人で溜め込んで、俺だけ何も知らずに能天気に浮かれてたんだ! 馬鹿みたいじゃないか!」
 考えてみなかったアルフレッドも悪いのだろうと思う。アーサーの様子は最初からおかしかったし、二人の奇妙な過ちの責めを、すべてアーサーに負わせるべきではないということもわかっている。
 けれどアーサーが、一人で悩むしかないと結論を出したことは、自分がまったく頼りにされていなかった証のようで、この上ない悲しみと絶望を呼び起こした。
 ――結局君は、俺のことなんか手間のかかる弟の延長としてしか見てなかったんだろう。
「不愉快なんだよ、自分だけそうやって大人ぶる君の癖!」
 ぐっ、と、アーサーの両肩を強く掴んだ。
「俺は君にとってなんだったの? ただの弟? セフレ?」
 我ながら歪んだ顔をしていたと思う。
 ――裏切られたと思ったのだ。
 アーサーが隠していたのがこのことであると――自分達が血の繋がった兄弟であると――強制的に悟らされたあの時、アルフレッドは間違いなく、裏切られたのだ。彼に寄せた信頼は――自分達は愛し合っているという信頼は、粉々に踏み躙られて眼前に打ち棄てられた。
 彼は、それだけの、行為をしたのだ。
「どうして……っ、そんな……っ、ひどいこと、言うんだよ……! お前知ってたくせに! なあ! 最初から全部!」
 なのになぜ彼の方が裏切られたような顔をして、肩を震わせているのだろう。
「いつ気づいた? さぞかし俺は滑稽だったろうよ、……でも、言えなかったんだ、言えるもんか……、兄弟だなんて認めたら、俺は、俺は……」
 お前に嫌われたくなかったんだ、ぽつりと言ってアーサーは顔を背けた。
 ――俺に嫌われたくなかったからしょうがなかった?
 そんなの、そんなの全部、アルフレッドが悪者じゃないか。この人を追い詰めて、真実の秘匿などという卑怯なことをさせて、奇妙に捻れ曲がった状況を作り出した――悪役。
 そんな役回りをすべてアルフレッドに押しつけるアーサーが心底卑怯だと思うと同時に、そうさせてしまった自身がひどく惨めだった。
 そうだ、アルフレッドは惨めだったのだ。自分はこの人に愛されているという自負、この人のすべてを知り、いついかなるときも寄り添う権利を手に入れたという幸福、この人の憂いすべてを取り除くのだという責任感、そんなものすべてが虚構に過ぎなかった。哀れで愚かなアルフレッドの勘違いだった。
「俺が、俺がそんなことで『愛してる』とまで言った相手を嫌うって? 君の中で俺は、その程度の男とみなされていたわけだ。……馬鹿にしてるのはどっちだよ」
 これ以上涙をこらえていられないと判断したアルフレッドは、さっと身を翻した。後ろ髪を引くように、アーサーの啜り泣く声が聞こえてきたけれども、彼はそれ以上言葉を発しようともしなければ、追いかけてこようともしなかった。
















(2008/5/12)



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