「じゃ、当面の危機も去ったことだし、皆さんこれからも頑張って働きましょー!」 フランシスの声で朝礼が終わる。 アーサーは相変わらず、店の皆からどことなく避けられていたものの、アルフレッドや、事情を薄々は元から知っていたらしいフランシスや菊が普段通りに接するものだから、じきにあの非日常的な出来事のことなど、なかったかのように、皆の態度も元通りになった。 目前の脅威も消え、皆晴れやかな顔で、働く姿も生き生きと輝いているように見えた、いつにも増して。アーサーやフランシス始め、ベテラン勢の機嫌もすこぶるよく、その日はそのまま、何事もなく終わるはずだった。 終電前のピークを終え、ちょうどパントリーに籠もってパフェを作っている時だった、入り口の方から、トーリスのいつもの爽やかな声が、自分の名前を呼ぶのを聞いたのは。 「あ、いらっしゃいアルフレッドさん! 今日お休みだったんですね」 ――は? 彼は何を勘違いしているのだろうか、自分は今まさにここで勤労中だというのに。 「あ、いや、僕は……」 ものすごく気になる。だがパフェの注文が三件溜まっている、自分がここを離れる訳にはいかない。 だが、こうしたアルフレッドの仕事への誠意は、次に聞こえてきたアーサーの声にもろくも崩れ去った。 「アルフレッド! お前今日休みだったっけ?」 もう完全に腹が立った。彼とは今日一緒に出勤したし、さっきだって団体客の対応に一緒に駆けずり回った。その自分をつかまえて、「休みだったっけ」とはどういうことだ。 怒鳴りつけてやろうとあっさりパフェを見限ってパントリーから出たアルフレッドは、遠目に入り口の奇妙な状況をようやく把握した。 そこにいたのは間違いなく自分だった――いや、自分はここにいる、落ち着け、カームダウン。 「もう、アーサー兄さん! 僕はアルフレッドじゃないですって! 何度言ったらわかるんですか、マシューですよ、マシュー!」 なんてことはないジーパンにTシャツ、白のパーカーを引っかけたアルフレッド――もとい、本人の主張によれば「マシュー」は、涙目で宣言した。 いや、この際それはいい。彼が「アルフレッド」でないということは、元よりアルフレッドにはわかりきっていたことだ。問題は件の人物が発した「アーサー兄さん」なる言葉の方で――。 頭の中で、遥か昔――まだアーサーとこんな仲になる前だ――交わした会話が蘇る。 (弟が一人――) ――では、アルフレッドに瓜二つの、それでいてどことなく情けない、奴が、奴こそが、アーサーのたった一人の弟だということか。 アルフレッドは、弟のことを語っていた時の、アーサーの優しげな瞳を思い出していた。 あれが弟。 ――じゃあ、じゃあ。 一つの可能性が唐突に降ってきて、アルフレッドはサアッと体中の血が冷え切ったように感じた。 アーサーの、弟への想い。瓜二つな自分。 ――まさか、弟に似てるから、今まで優しくしてやってただけだっていうのか? それを自分は勘違いして、あまつさえ押し倒したりして。――弟に似てたから拒めなかった? 傷つけられなかった? ああ、今までアーサーが隠していたのはこのことだったのだ。昨日「隠し事をしないで」と頼んだときも、どことなく歯切れが悪かった彼。 ――みんなみんなこのことだったのだ。 絶望に打ちひしがれて動けずにいると、アルフレッドの気分とは対照的に、アーサーがずいぶんと間の抜けた声を上げた。 「あ、あ、あ、あーっ! そうかマシューか! わかってたぞ、俺はわかってたに決まってるじゃないか! なんだお前、ずいぶん久しぶりだな! 背が伸びたんじゃないのか? え? あーっとそうだ、お前今までどこに留学してたんだっけ? あそこだよな、あの、えーと、オーストラ……」 「カナダです」 至極慣れ切った様子で、マシューなる人物はアーサーの言葉を遮った。 恨みがましげな視線をアーサーに向ける。 「僕は四歳の時、大おじに引き取られてカナダに移住してこのかた、兄さんたちのことを忘れたことはありませんでしたよ。なのにアーサー兄さんは、どうせあっさり僕のことなんか忘れちゃったんでしょ」 「あ、わ、悪い……」 忘れてたって認めたよこの人、だいたい四歳で別れた相手に「背が伸びたんじゃないのか」って……と心の中でツッコミを入れたところで、アルフレッドは自身の仮説の矛盾に気がついた。 ――アーサーがあんなに愛おしげに語った弟のことを、こんなにあっさり忘れるものだろうか? 「いいんです。父さんもそうでした。ところで」 彼はしばらくごそごそとカバンをあさり、いくつかのファイルを取り出した。 「父さんから預かってきましたよ。アーサー兄さんに渡してほしいって。何でも父さん、イギリスに帰っちゃうそうですね?」 「あ、ああ! 権利書類か、ありがとう」 ようやく合点のいった顔で、ファイルに手を伸ばしかけたアーサーを、マシューはじとりと睨みつけた。 「……それに、僕のいない間に、母さんと離婚して連絡がつかないって。しかもどうやら亡くなってるらしいって? いったいどうしてそんな大事なことが、これまで十年以上も僕の耳に入らないんですか!」 「わ、悪い……離婚云々はともかく、ほんとに消息が知れなくて、亡くなってるってわかったのはつい最近なんだよ」 「離婚の時点でまず知らせてくれるべきでしょう? 僕たち家族じゃないんですか?」 「ほ、ほんとに悪かったって……アル……じゃねぇやええと……」 「マシューです」 きっぱり言って、彼はようやくファイルから手を離した。 「ところでアルフレッドは無事なんですか? 父さんの話じゃ、生きてるけど行方は知らないって。アーサー兄さんが教えてくれないって嘆いてましたよ。アーサー兄さんはアルフレッドに会ったんですか?」 突然、自身の名前が話題に上って、アルフレッドは我が耳を疑った。 「あ、や、それは……」 焦ったように口籠もったアーサーに、ぴしゃりと彼は言った。聞き逃せないその台詞を。 「アルフレッドは僕の双子の兄ですよ、どんな事情があるのか知りませんけど、僕にだけは教えてくれてもいいんじゃないですか?」 ――双子? 改めて彼の顔をしげしげと眺めてみた。 もしもあのマシューとかいう彼と自分が、見知らぬ他人に「俺たち双子なんだ!」と宣言して回ったなら、まず疑われはしないだろう。それくらい、アルフレッドと彼は似ていた。血のつながりがない、今日初めて会った他人だという方が驚きだ。 しかも彼には本当に双子の兄がいて、その兄の名前が自分の名前とまったく同じなのだという。そして彼の母は――彼も知りえないうちに――離婚後に亡くなっており、自分の母もまた父と離婚後に亡くなっている。 これが単なる偶然だというなら、宝くじの一等にでも当たる方がはるかに簡単そうだ。 「あ、あれ? アルフレッドさんのご兄弟ですか? アーサーさんのではなく?」 それまで静かに来客とアーサーの会話を見守っていたトーリスが混乱したように会話に割って入った。話の流れから「アーサーの親族」と思っていたが、顔だけ見ればどう見てもアルフレッドのそれである。 「……あ、バカ!」 小さくアーサーがトーリスを制そうとしたのをアルフレッドが認めた瞬間、マシューはぱっと顔色を変えた。アーサーの制止は間に合わなかったらしい。 「アルフレッドをご存じなんですか? やっぱり……アーサー兄さん、身近にいるのに隠すなんて! どういう神経してるんですか! 百歩譲って、アーサー兄さんが僕のこと忘れちゃうのはいいですよ、どうせ影薄いですから! でも、でも、アルフレッドだけは僕のこと覚えてくれてるはずでしょ、双子なんだから!」 会わせてください、とマシューはトーリスに懇願した。 戸惑ってマシューとアーサーを見比べるトーリスに、アーサーはまくしたてる。 「ご、ごめんな、違うんだ、アルフレッドっていうのはこいつの双子の兄なんだけど、全然うちのアルフレッドとは関係ないから! 実は俺も行方知らないし、ホント気にしなくていいから!」 「え、で、でも、この方、アルフレッドさんにそっくりじゃないですか。双子なんでしょう?」 「それはきっと偶然の一致だから!」 「いや、偶然って……どう見ても……」 アーサーの剣幕に戸惑った様子のトーリスは、ふと言葉を切って、何かに気づいたように目を見開いた。 「――あれ? でも、この方、アーサーさんの弟さんなんですよね? その方とアルフレッドさんが双子の兄弟……。じゃあ、アルフレッドさんはアーサーさんの弟ってことですか?」 びりり、と体中を電気が走った気がした。 「だっ……だからほんとにアイツは関係ねぇんだって! ほら、マシュー、また帰ったら話してやるから、今日はもう帰れ、な?」 ――兄がいたことは覚えている。仕事で忙しい父と、そんな父を嘆いてヒステリックに喚いてばかりいた母。唯一アルフレッドを想い、毎日優しく気にかけてくれたのは彼だけだった。だが、自分に双子の弟がいたかと問われれば自信がない。正直、その唯一大好きだった兄の名前はおろか顔すら覚えていないのだ、アルフレッドに世間並の家族があったのは、そんな昔の出来事だった。父や兄と別れてからも、母は弟の話など一度も持ち出したことはない。それで、自分に兄弟は兄だけなのだろうと思っていたのだが。 アーサーに強引に背を押され、今まさに追い出されようとしていた彼が、ふと振り返った。遠巻きに立ち尽くしていたアルフレッドとその視線が、偶然にかち合った。 「……アル」 彼が小さく自分を呼んだ。その視線を追って自分に辿り着いたアーサーの翠の瞳が、まるで墜落した飛行機のように揺れるのを、どこか冷めた気持ちで眺めていた。 ――ああ。 どうしていいのかわからなかった。まるでこの世の終わりのような真っ青な顔で、唇を噛み締めて俯くアーサーに対して、泣き喚くべきか、怒るべきか。 すぐにアルフレッドはにこりと笑うと、涙を浮かべた目でこちらを凝視して動こうとしない自分そっくりな男に、明るい声で言い放った。 「やあ! マシューじゃないか! 久しぶりだね」 「あ、あ、あ、アルフレッド……」 するりと彼はアーサーの震える手を解いてこちらへ駆け寄ってきた。じわりと浮かぶ涙に、彼が本当に自分との再会を心待ちにしていたのだと――彼が間違いなく自分の血族であると――悟ったが、残念ながら彼のような感動は自分の胸には湧き上がってこなかった。 「どうだった、カナダは。元気でやってたのかい? 君は昔から泣き虫だから」 口から出まかせだった。けれど彼の様子を見るに、あながち的外れでもないだろう。 「カ、カナダはいいところだよ。物価も安いしね。アルフレッドこそ、大変だったね。離婚とか、僕全然知らなくて……」 アーサー兄さんも父さんも教えてくれないから、とマシューが振り返れば、俯いたままで、びくりとアーサーが肩を震わせた。顔は見えない。死刑を待つ死刑囚よりも、哀れを誘うその恐慌に、アルフレッドは憎しみさえ覚えた。 よって、一際大きな、明るい声を出す。 「気にしなくていいよ。アーサーはいつも人に兄弟は俺一人だって言って回るような忘れん坊なんだぞ!」 「昔からそうだったよね……兄さんは君ばっかりでさ」 懐かしいなぁ、とマシューは顔をほころばせた。 「今までアルフレッドは行方が知れなかったって聞いたけど……大丈夫だったのかい? 母さんはあんまり、生活力のある人じゃないだろ、ほら、箱入り娘だったからさ……。今までどうやって暮らしてたの? 兄さんとはいつ再会したんだい?」 「この店に入ってからさ! 彼には俺が弟だってすぐわかったみたいだ。本当によくしてくれて、すごく助かった」 言いながら気持ちが上滑りしていくのを感じた。アーサーがこれを聞いてどんな反応を示しているのか、確認する勇気すらもはやない。 「そりゃ、名前聞けばわかるだろ。そうかぁ……よかったね、たまたまアーサー兄さんと一緒の職場に……」 「うん、ほんとに俺はラッキーだったよ! こうして君とも再会できたしね!」 そう、この見知らぬ弟がいなければ、いつまでもアルフレッドはここで悶々とする羽目になっていただろう。巧みに真実を覆い隠し、アルフレッドを傷つけまいとしたあの兄に、踊らされ嗤われたまま。 (2008/5/7)
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