どきどきと、ガラにもなく逸る心臓を抑えつつ、何でもない顔を装いながら、アルフレッドはテーブルを拭いていた。
 何でもない会話だったはずなのに、アーサーがやけに遠くに見えて、アーサーがやけに大きく見えて、まるで知らない人のようで。
「どうかしましたか? ローデリヒさん」
 薄く染み出したブドウのピンクに、唇をつけながら女が言った。
 答えた男の声は、周りを憚るように抑えられていたが、聞こえない距離ではない。
「……いえ。……あの男、ルートヴィッヒ相手にずいぶん暴言を吐いたつわものだと聞きましたが、どこかで見た覚えがあるような」
「そうですか?」
 いつまでも、汚れてもいないテーブルを拭き続けることにも限界がある。アルフレッドはため息を一つついて、身を翻した。
 これ以上、機嫌の悪いアーサーに絡まれてはたまらない。
「でも、まあ、こんなサービスも受けられて、よかったじゃないですか。私、ローデリヒさんと、ずっとこんな風にゆっくりお茶したかったんです」
「私もですよ、エリザベータ」
 女は嬉しそうに口元を綻ばせた。
「それに、何かあったら私が守りますから、ローデリヒさん」
「女性に守られるようでは、情けないですね……」
「そんなことありません」
 本当にそんな気分だ。
 アーサーは自分が守ると、そんな風に軽々しく考えていた自分が、やけに情けなく思えた。
 彼はもっとずっと、強く大きい人だ。
 アルフレッドが彼にしてやれることはいったい、なんだろう。


「いらっ……あ」
 ちりちりん、と振動の余韻を残して鳴る鈴に、にこやかな笑顔。
「今日は僕、お客さんだよ」
 その、字面だけを見れば穏やかな、そしておおらかだけれどもはっきりと強い声に、アルフレッドは不承不承「いらっしゃいませ」と言い直した。
 件の客は「好きなところに座っていいよね」と勝手に歩いていく。
 そういえばイヴァンは今日休みなのだった、とアルフレッドは厨房を一瞥して思った。
 お冷やを持っていけば、不穏な光を湛えた紫の瞳が笑う。
 ひょっとするとマフィアなんかより嫌な客だ、とアルフレッドは思った。
「僕は今日、アルフレッドくんもお休みなんだと思ってた」
「はぁ?」
「街で君を見たような気がしたから」
「俺は街なんて行ってないぞ」
 きっちり開店時間の二時間前から働いている。
 口を尖らせれば、「勘違いだったみたいだね」とイヴァンは軽く流してしまった。
 しばらく注文するでもなくお冷やに口をつけるでもなくぼーっと店内を見回していた彼に、オーダーを取ろうというのか、ハンディを広げてアーサーが近づいていく。
「ご注文は――」
「うん、何にしようかなぁ」
 その様子を何ともなしに眺めていたアルフレッドは――そもそも店の事情に詳しいイヴァンが忙しい時間に来るはずもなく、アルフレッドは暇を持て余していた――続いてイヴァンが取った行動にぎょっとした。
「アーサーくんも、早く僕のものになればいいのに」
 などとのたまって、アーサーの白いふっくらとした双丘に手を滑らせたのだ。
「ちょ……っ」
 アーサーは焦ったような声を上げてその手を振り払ったが、瞬間的に沸騰したアルフレッドの血液はそんなことでは収まらなかった。
 気付けば大股で二人のもとに駆け寄っていて、アーサーを庇うように押し退けた。
「で、注文は?」
「冗談だよ、何カリカリしてるの? アルフレッドくん」
 カッと頭に血が昇る。今ほど誰かを殺してやりたいと思ったことはない。
「……冗談でも、そういうことはするな。ここはそういう店じゃない」
 憤るアルフレッドを持て余すような表情で、けれど極めて冷静な声音で、アーサーは言いにくそうにその諫言を口にした。
 わかっている。イヴァンに正面切って対立すれば、アーサーの立場も危うくなる。
 けれどそんなふうに冷静にはいられなかった。できるならば声高に、「俺のアーサーに触るな」と宣言して、生まれ出でたことを後悔するくらいにはボコボコにしてやりたい。
「……ごめんね、確かに嫌がらせにしては浅慮だったかもね」
 ふっと笑った目は明らかにアルフレッドを捉えていて。言いようのない不快感が胸を昇っていく。喉へ、頭へ。
「嫌がらせ、か」
 当のアーサーは眉をひそめたけれども、それ以上は何も言わず、静かにその席を離れた。
 興醒めたように汗の浮かんだグラスに手を伸ばしたイヴァンは、「美味しいもの出してってライヴィスに伝えてよ」と至極無茶な注文を、何でもないことのように言った。
 これは後で知ったのだが、イヴァンはその日、お隣は王中華飯店で権利絡みの大バトルをしてきたばかりで、いつも以上に機嫌が悪かったらしい。
「こちらの方々がお隣に目を付けているのは昔からですが、イヴァンさんはそれとは別口で、しかもなりふり構わないから質が悪いんだそうです」
 耀の気持ちを代弁してみせた菊に、アルフレッドは事態の複雑さを思った。現実はかくも醜いものだ。アーサー含めここの経営陣が「マフィアのよう」という耀の感想は、あながち間違っていないのかもしれない。
 こうして今日もヒーローは、いらないことばかりを覚えていく。
「きれいごとばかりじゃ生きていけないんだね」
 わかっていたことだ。家族を失い、一人で生きなければならなかったアルフレッドには。
「あなたにもいずれわかります。大切な家族が、これからできるのだから」
 それはアーサーを生涯の伴侶とすべき可能性について述べているのか、はたまた一般的見通しについて述べているのか、まさかどこぞの誰とも知れない父と兄の復権についてではあるまいが、とにかく何もかも見透かしたような口振りが、とかく無責任だと思った。


「えっ、帰国?」
 アルフレッドは暇を持て余していた。
 抱きしめたクッションに顎を乗せて、見たくもないテレビをただ眺めている。
「それはまた突然……はぁ、はぁ」
 何度もアーサーと愛し合ったソファの上に胡坐をかいて、それでも自身以外のぬくもりは感じない。
「え、では前話した権利書の件は……」
 それもこれも、さっきからアーサーがアルフレッドそっちのけで電話にかまけているせいだ。
「はぁ……だ、誰かって誰ですか、思い出してください」
 しかも何の話だかさっぱり見えてこない。
 話しぶりからするに、目上の相手らしいのだが、店の人間とも思えない。
「わかりました。店にですか、はい」
 受話器を置くと、アーサーは考え込むようにため息をついた。
 イライラしていたので、多少きつい口調でそんな彼を呼ぶ。
「アーサー」
「お、悪い」
 隣に戻ってきたアーサーを思い切り抱きしめると「苦しい」と抗議されたが、構ってなどやるものか。
 押し倒して顔中にキスを降らせながら「誰から?」と訊いた。
「……父親」
 不自然な沈黙が空いた。その間、アーサーの瞳が迷うように彷徨うのも見逃さなかった。「嘘だろう」と顔に出たのだろうか、アーサーは弁明するように首を振ってアルフレッドを突き放した。
「嘘じゃねぇよ、イギリスに帰るからって、連絡してきた」
「今まではこっちに?」
「仕事でな」
「仲いいんだ?」
 その年で、もう立派に独り立ちしているというのに、未だに父親と定期的に連絡を取り合うとは。
「そうじゃねぇよ。こっちはとっくに自立してるし。ただ、なんだ、あっちにも責任だのなんだの色々あるから、俺が仲介して、なんとかしてやろうという問題が今はあって、その話し合いとかでたまに行き来してたけど、もう帰らなきゃいけないからってんで、カタをつけることにした」
 なぜだろう、さっきからアーサーが目を合わせようとしない。
「……全然要領を得ないね、君の話は」
 まぁいいけど、内輪の問題なら、と軽くいなしたのに、アーサーは不服そうに唇を尖らせた。なんだろう、アルフレッドにも興味を持ってほしい話だったのだろうか。
 だったらもっと分かりやすく話せばいいのに。
「まぁ、なんだ、二、三日すればわかる……から」
 とっくに興味を失っていたアルフレッドの肩を突然がしっと掴んで、アーサーは丸く開いた翠の目で、じっと見つめてきた。
「な、何が……?」
 その迫力に、アルフレッドは思わず目線を逸らした。
 不覚にも、幸せに浸って見惚れてしまいそうになったからだ。
「なぁ、お前、何があっても、俺を……」
「え?」
 前にもアーサーはこんな訳のわからないことを言っていた。
 何があっても、軽蔑されても、今が幸せだと。
 ――ついに、隠していたことを、言ってくれる気になった……?
「いいや、お前に任せる」
 ふ、と伏せた睫毛。
「だから、何が……」
 問いかけたアルフレッドの唇を塞いで、アーサーは甘えるようにアルフレッドを押し倒した。形勢逆転だ。
 その様子がなぜか、焦っているように見えたのは気のせいだろうか。
 まるで、この幸せが長くは続かないと、彼は知っているかのような――。
 ――ねぇ、何を隠してる?
 そんな懸念も、行為に没頭するうちに、いつの間にかどこかへ行ってしまっていたのだが。


















(2008/4/2)



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