事務所に用があったらしい、電話機を持ったままホールを通り過ぎた菊は、耀ら二人を認めて顔を歪めた。
「あっ」
 すかさず、ヨンスと呼ばれていた、少年にも近い男が勢いよく飛びかかったので、アルフレッドは茫然としてしまった。
「菊なんだぜー! お前元気なんだぜ?」
「ちょ、やめてくださいっ、電話届けに行くんですからっ!」
 迷惑そうに少年を振り払った菊に、耀が口をとがらせながら歩み寄る。
「お前、どうしてこの前の王中華飯店・新春コマ回し大会来なかったあるか!」
「普通に仕事だったんですよ! それに私、もうそちらの従業員じゃありませんから!」
 あとここ中華街じゃないんで、深夜に爆竹鳴らすのやめたほうがいいですよ、と呆れ顔で付け加える。そういえば何日か前、お隣でドンパチうるさかったことがあって、ひょっとしたら強盗では、と皆で額を突き合わせて相談を始めかけたところ、菊の「そういえば今日は春節でしたね」という穏やかな一言で、なんだかよく分からないがあっさり収拾したことを思い出す。
「まったく、高い給料もらってウハウハあるか! 薄情者ォオオオ!」
「兄貴ィイ! 菊なんかいなくても、俺がいるんだぜっ!」
「勝手にやっててください、もう!」
 黄色い肌に黒い髪。ああしてじゃれていると、仲の良い兄弟のようにも見える。
「あ、菊!」
「なんですかっ!」
「またキムチ作ったから、取りに来るといいんだぜ!」
 にこりと、迷惑がられていることなど意にも介さない無邪気な笑顔に、菊の顔がほんの少し、嬉しそうに歪んだ、気がした。
「……わかりました、近いうちまた伺います」
 それは、アーサーがポーカーフェイスをつくろう時のそれにそっくりで、アルフレッドはなんだか笑ってしまった。
 ――本当は嬉しいくせに。
 言ったら菊も、アーサーのように顔を真っ赤にして怒るのだろうか。
 騒がしかった隣の二人組は、散々値切った挙句に会計を済ませて去っていった。お隣だろう安くしろと主張する割に、ここのメンバーが隣で優遇してもらったという話はとんと聞かない。
 無事、事務所に電話を届け終わったらしい菊を捕まえて、アルフレッドは率直に訊いた。
「……君、隣で働いてたのかい?」
「あれ、ご存知なかったんですか?」
 特に秘密の話でもなかったらしい。彼はあっさりと頷いた。
 そういえばアルフレッドさんにはお話したことなかったかもしれませんね、だなんて。
「でも最悪ですよ、あの人たち、小うるさいしワガママだし金の亡者だし、料理は上手いけどなんか色んなことに無頓着だし、バカだし、子離れしないっていうかなんていうか、ちょっとくらい私に恩があるからってデカイ顔しちゃってぇえええ! 何十年前の恩だって話ですよ! 私だって今じゃ一人で立派にやっていけてるのに……!」
 たとえば菊もこんな顔をするのだということとか。
 本当に、アルフレッドはまだまだ下っ端で、知らないことが多すぎるらしい。
 もう少しその珍しい表情を眺めていてもよかったのだけれど、去った二人組の顔を思い出して、同時に思い出したことがあった。
「あ、そういえばさっき耀が言ってたんだけど」
「何です?」
「あそこの31卓の客、どうもその、なんとかファミリーっていうマフィアの一味らしいんだよね」
 菊は一瞬呆けた顔をしたあと、件の席に目線を走らせた。そこではまだ、品のよい男女が談笑を続けている。
「どうして早く言わないんですか! ヴァルガスファミリーでしょう?」
「でも、何かしてくる様子もないし」
「何言ってるんです、一応上の人たちに伝えないと」
 そう言って菊が身を翻したちょうどその時、事務所の扉が開いた。
「あ、アーサー」
「アーサーさん」
 駆け寄ろうとする菊を手で制して、アーサーは頷いた。
「わかってる」
 わかってるだなんて冷静に構えているが、アーサーが出てきたら逆効果なのではないだろうか、とアルフレッドは内心不安を隠しきれない。
 元ヤンだかなんだか知らないが、ただでさえ向こうからは目をつけられているというのに、また無茶をして、アーサーの身に何かあったら――。
「さっきの電話、向かいの店からだったろ、どうもうちの店の周りにそれっぽい奴らがうろついてるから、ってことで電話してくれたらしい」
「どうするんです」
「どうも何も、こんな堂々と乗り込んできやがったんだ、丁寧に挨拶しねぇとなぁ……」
 目が、恐い。
 ああだめだ、今彼を止められるのは自分しかいない、と勇気を奮い立たせようと、アルフレッドは震える拳を握りしめた。
 それに、今日はただの偵察で、心配は無用だろうと耀も言っていた。
「アーサー」
 ようやく勇気を総動員して、ともかくも彼を宥めようとアーサーを呼んだアルフレッドに、対するアーサーはちらりとワインセラーに目を向けると、短く言った。
「チャペルダウン開けろ」
 それは物騒な武器だとか暗号だとかいうわけでは決してなくて、単にイギリスワインの名である。
「は?」
「グラスは二つ」
「え、え? し、白? 赤?」
「スパークリング、ロゼがいいかな……ブリュット・ロゼで」
 決戦の前に飲む気かい、君、とは口にできなかった臆病者のアルフレッドは、言われるがままに、多少震える指でそのワインの栓を抜いた。冷蔵庫からグラスを二つ取り出し、アーサーに渡す。
 目が据わったアーサーは、そのままスタスタと、問題の男女のところまで歩いて行ってしまった。菊とアルフレッドは目を見合せて、どきどきと事の成り行きを見守る。
「お客様、こちら当店よりサービスさせていただきます」
 ぴたりと歩みを止めたアーサーは、にこりと最大級の営業スマイルを顔に浮かべた。
「おや、いいんですか?」
 男女は戸惑ったようにアーサーを見上げる。その顔を見て、彼こそが目当ての人物だと悟ったらしい、その意を解してか、男はふっと笑った。
 アーサーは慣れた所作で、グラスにワインをそそいでいく。淡いサーモンピンクが、ワイングラスの中で揺れた。
「わぁ、キレイ!」
 女の目がきらきらと輝く。ああ、スパークリングのロゼとは、彼女のために――若い女性向けにセレクトしたものであるらしい。
「当店はお気に召していただけましたでしょうか」
「ええ、とても」
「それはよかった。我々も誇りを持って営業しております。どうぞ末永く見守っていただければと思います」
 意味深なセリフに、男が根負けしたように噴き出した。
「……わざわざありがとうございます、ですが、私にはそのような権限はありませんので」
 上の意向次第ですね、との返しに、アーサーも苦笑した。
 どうやら、話はまとまらなかったらしい。
「ごゆっくりどうぞ」
 紳士然とした挨拶で交渉を締めくくって、アーサーはこちらへ戻ってきた。男女に背を向けた瞬間に、憮然とした表情になって。
 それを遠くから見守っていた二人は、心臓が縮みあがる思いであった。
「『丁寧に挨拶』って、ホントにやるとは思わなかったよ……」
「私も、少しどきどきしました」
 やはりこの店の皆さんはやることが違いますねと訳の分からない感想を漏らして、菊はキッチンに戻っていった。
 隣の中華飯店なら、「ふざけんじゃねーある、テメーに食わせる飯はない!」と叫んで追い出してしまうだろう、とも。


















(2008/3/26)



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