「あいつ、オーナーを悪趣味呼ばわりしやがった」
「こら、タバコはやめなさい。お前、禁煙したはずでしょ」
「ッるせーよ! 黙れクソワイン野郎!」
「ったく相変わらず凶暴だねぇ元ヤン。もう化けの皮が剥がれたよ」
「あんなナメられて大人しくしてられっか!」
「アルフレッドが怯えてたぞー」
 ぐ、とアーサーは押し黙った。
「……嫌われた、かな」
「そこで嫌われたならそれまででしょ。お前も胸のつかえが一個取れてよかったねー」
「テメェ……ッ!」
 フランシスに掴みかかろうとしていたアーサーは、ようやく、事務所の入り口に佇むアルフレッドの姿に気づいたらしい。
 気まずげに口を閉ざし、乱暴にタバコの火を消すと、顔を背けた。
「悪いアルフレッド、店の後片づけ、手伝ってきてくれるか?」
 フランシスに言われて、ただ頷くしかなかった。


 食器の破片やら落ちた料理やらを片付けて、テーブルや椅子を元の位置に戻すと、店はそれほど被害を受けていないように見えた。思えばあのマフィアたちも、集団で威圧してきただけで、特に乱暴は働いていないのだ。これは逃げ惑う客や店員が倒したもの。
 けれど多くの高価な食器が割れてしまったし、店員にも客にも怪我人がいる、店のイメージも下がった。
 アーサーが怒るのも無理はない。
 アルフレッドはそう、思い込もうとして、深く息を吐く。
 アルフレッドにしてみればほとんど別世界の、暴力のプロともいうべき彼らに、何一つ臆す様子なくつっかかっていったアーサー。慈悲もなくテーブルを蹴りつけた脚。タバコの匂い。
 アルフレッドは彼のことを、知らなすぎる。
「痛っ」
「あ、気をつけてください。その辺り、まだ破片が……」
 布巾を持って零れたコーヒーを拭いていた右手の指先から、ぷくりと赤い血が染みだしていた。
「大丈夫ですか?」
 トーリスが覗き込んでくる。その瞳に映った自分が、ひどく情けなく見えた。
「バンソーコー……」
「キッチンにあったと思うんで、俺、取ってきますよ」
「いいよ。ついでにこれ、捨ててくる」
 血とコーヒーの染み込んだ布巾をかざして言う。
 キッチンに入る前にちらりと、血相を変えつつも気品を損なわないオーナーが、早足で店に入ってくるのが見えた。
 また、幹部は事務所に立てこもって作戦会議らしい。
 その中にあってアーサーは、どんな顔をするのだろう、とぼんやり思った。
「……菊」
「……おや、どうしました?」
 洗い場にいた彼は、アルフレッドの指先を見て、てきぱきと治療の準備をし出してくれるのだが、アルフレッドはここぞとばかりにサボることしかできない。甘えた考えかもしれないが、自分には休憩が必要だった。
「君は、アーサーがああいう人だってこと、知ってたかい?」
 菊はこう見えて、アルフレッドよりも若干古株なのだった。
「私をこの店に引き入れてくれたのはアーサーさんですよ」
 もちろんああいった、少し強引で世渡り上手なところは存じてました、と続ける。
 少しどころじゃないだろう、とアルフレッドは思ったが、黙って耳を傾けた。
「他の店で低賃金で働かされていた私を、『お前には力がある』とおっしゃって下さって」
 でもまぁあの店長も頑固ですから、結局この店の皆さんで犯罪まがいの脅迫を。店長泣いてました、なんて笑うから、どこまでが本当の話かわからなくなった。
「あの人はね、アルフレッドさん。敵に回したらうんと恐いけれど、味方につけばそれはそれは頼もしくて優しくて、全力で守ってくれる人なのですよ」
 なんだそれは、とアルフレッドは思った。そんなのは視野の狭い、粗暴者がスラム街の片隅で群れるときの理屈だ。
 ヒーローはいついかなるときも、常に正義の隣にあらねばならない。相手との親しさによって、相手への感情によって態度を変えるなんて言語道断であった。
「それでも彼のああいった振る舞いは許せない、ですか?」
 当惑しているだけだ。今までアルフレッドに見せてきた顔は、嘘偽りに過ぎなかったのかと。
「あなたはお若い。でもそれでいいのだと思います。それでこそアーサーさんも、あなたを自慢の――」
 諭すように感心するように何かを言いかけた菊が、ふいにハッとした様子で口をつぐんだ。
「何? 自慢の……」
「……自慢の後輩として、誇っている理由だ、ということですよ」
 にこりと笑った菊は、「はいお仕舞い」と、綺麗に絆創膏の貼られたアルフレッドの指を解放した。
 けれどアルフレッドは知っている。彼は感情や考えていることを隠すのがとても得意なのだ。
 彼も何かを知っている。アーサーがアルフレッドに言いたがらない、何か。
 舌打ちでもしたい気分だった。てっきりアーサーがアルフレッドよりも心の内を明かしているのはフランシスだけだと思い込んでいたが、思わぬ伏兵がいた。
「……アーサーと仲がいいんだね」
「お友達ですから」
 その菊のセリフに、何一つ嫌味っぽいところも、意味深に何かを含ませたようなところも、なかったけれど。


 思ったよりも後片づけに手間取ったこともあって、その日はそのまま店じまいとなった。
 翌日からはまた、通常の営業が再開された。果たして次にマフィア連中がやってきたとき幹部がどうするつもりなのか、アルフレッド含め多くの店員は何も知らない。
 アーサーはこれまで通りきびきび働き、にこやかで客受けも相変わらずいい。あの日の態度が嘘のようだ。
 けれど二人の間には依然、深い溝が横たわったまま。
 何をこんなに、意地になっているのだろう。
 翠の澄んだ目がそらされるたび、アルフレッドはそう思うようになっていた。
 一人で家に帰り、そのまま眠る。思い出すのは、隣に寝ていた彼のぬくもり。
 ――アーサー。
 キスをすると、恥ずかしそうに、けれど嬉しそうに笑った。
 何度寝返りを打っても消えない笑顔に、胸が苦しかった。
 ――もういいじゃないか。
 彼がどんな隠し事をしていても、決してアルフレッドに心を許さなくても。
 自分が折れてしまえばいいだけのことだ。たったそれだけのことで、もう一度、もう一度この手でアーサーを抱ける。
「アーサー」
 何日かぶりに、仕事が終わって私服に身を包んだ彼に声をかけた。大きく見開かれた翠の目には戸惑いと、ほんの少しの歓喜が透けて見える。それだけのことで、涙が出そうになった。
「……俺の家に来ないかい?」
 アーサーがアルフレッドのことに興味もないというのなら、こちらから無理矢理押しつければいいだけのことだ。
 端から「アーサーに惚れられている」という勘違いにも似た妙な自信があったために、どうしても、自分から必死にアーサーを追いかけることができないでいた。けれど冷静に考えれば、とんだ驕りだと誰もが笑うようなことだ。
「え……と……」
 アーサーはどのように答えたものか、迷っているようだった。
「来てほしいんだ」
 自分から強い想いを明かすことなんて、格好悪いとずっと思っていた。けれど格好良いだけでは、アーサーは隣にいてくれない。
「……分かった」
 伏せがちに足元を見つめた目に浮かんだ涙を、掬い取ってやりたい、その衝動をぐっとこらえて。
 二人連れ立って、アーサーのマンションとは別方向へ歩く。十分に店から離れた頃、アルフレッドはアーサーの手を取った。アーサーは何も言わなかった、アルフレッドも何も言わなかった。けれど確かに握り返された手の感触が、暖かな陽光とともに、アルフレッドの現実だった。
「……思ったよりいいとこ住んでんだな」
 やっと二人の沈黙を破ったのは、そんな色気もクソもないアーサーのセリフ。アーサーの部屋に比べれば何倍もみすぼらしいとアルフレッドは苦笑して、ようやくアーサーの手を解放した。お互い変に緊張して、汗でべたべたになったてのひらは気持ち悪かったのに、それでも意地になったかのように、ここまで決して手を離そうとはしなかった。
 離した手を、すぐに拭くようなこともできなくて、もう一方の手と擦り合わせることで浮かんだ水分をやり過ごそうとしていたら、アーサーもそれに倣って両手を合わせていた。
 思わず顔を見合わせて、笑ってしまう。それで一気に和んだ場に安心して、アルフレッドはソファを勧めた。
「ちゃんと食べてるのか?」
 ちょこんと遠慮がちにソファに腰かけたアーサーだが、まるで母親のようなことを言う。
「食べてるよ」
「そうか……」
 アーサーの部屋と違って必要最低限の家具しか置いていないここには、当然ソファも一つしかなく、隣に座ることも憚られたアルフレッドは、所在なさげに立っていることしかできない。
 アルフレッドが淹れた薄いコーヒーに口をつけて軽く顔をしかめ、アーサーはようやく、「座れよ」と端に寄った。
「……俺、お前に言いたくないことが、いっぱいある」
 この前、お前が怒ったこともそうだし、とアーサーは隣に座ったアルフレッドの体温を意識するかのようにもぞもぞと体を動かしながら、ぽつりと言った。「それが本題だろう?」と言いたげな態度は気に入らなかったけれど、そこを通過しなければ、確かに二人は先へは進めない。
「きらわれたく、ないから」
「嫌わないよ。……嫌うもんか」
 その体をすっぽりと抱き締めてしまいたいという愛情が胸にせり上がってくる。けれど軽く奥歯を噛み締めるだけに止めて、アルフレッドは返した。
「……嘘つけ」
 重く響いた一言が、ずしりと胸を打った。何が彼にそこまでの自信を抱かせるのかわからなかった。
 自信ならこちらにだってある。アーサーへの気持ちを押し殺すことなど、できないという自信。
「お前は俺のことなんか、どうだっていいんだろ。俺が勝手に好きなだけで、ばかみたいに好きなだけで、お前はそれに一時、ほだされただけなんだ」
 決めつけるような口調に腹が立った。
「どうしてそう思うのさ。言っとくけど、好きなら、嫌がってるのに詮索するな、なんて話なら聞かないよ! 好きだから、全部知りたいし」
 そこでアルフレッドは一旦セリフを切った。
「隠されたら、悲しいんだ……」
「そうじゃない、そんなことじゃなくて……」
 唇をかみしめて首を振ったアーサーが「お前は俺のことなんか好きじゃないんだ」と言い切る理由は他にあるようだったけれど、それきりアーサーは口をつぐんでしまったから、二人の間には気まずい沈黙だけが漂う。
 ああ、だめだ。これではいけない。
 ちっとも動けない。愛しい想いだけは、離れた月日が増すごとに膨らんでいく気がするのに。
「……アーサー、好きだよ」
 初めて本人に、面と向かって言った気がした。
 アーサーはアルフレッドの目を見ない。ただ頑なに、「嘘つけ」と繰り返したいのを堪えているように見えた。
「……ごめんね、困らせて」
 嘘じゃないよ、とムキになることに、意味はない気がした。
「……君の方こそ、ほんとは俺のことなんか好きじゃないんだろう? 同情とか、雰囲気とかに流されてくれてただけでさ」
 心当たりならあるのだ。舞い上がっていたアルフレッドは少々強引に事を進めた気がするし、最初に「愛情ゆえに厳しく当たった」と言われた以外に、アーサーからはっきり「好きだ」という言葉を聞いたことはなかった気がする。
 寂しげに言葉を紡ぐと、血色を変えたのは、今度はアーサーの方だった。
「ちがう! そりゃ、そりゃ、最初はそうだったけど……。俺は、俺はお前にこんな気持ち、抱いたらいけないのに……なのに……」
 何を言っているのかよくわからない。返す言葉を探すうちに、帰ろうというのか、若干腰を浮かせたアーサーが、迷うようにこちらを見た。
 その目はまるで。
 ――ああ、俺のこと好きになったらいけないとか訳わかんないこと言うくせに、そんな物欲しそうな目で見ないでよ。
 帰らないで君が好きなんだと言って、思い切り抱き締めてもいいのだと、そんな勘違いをしてしまうから。


















(2008/3/15)



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