その日は一日中、どんより重い雨が降っていた。 週半ばの水曜日であったこともあって、客足はまばらで、アルフレッドは休憩を言い渡され、事務所でぼんやりとテーブルにうつぶせていたのだった。 「お前が元気ないと、なんか気持ち悪いな。何かあったのか?」 兄貴風を吹かせてくるフランスを睨みつけて、むっつりと押し黙る。 誰のせいだと思ってるんだ。 あれ以来、アーサーとまともに言葉を交わしていない。もちろん仕事上必要なことは喋る。そこまで子供じゃない。 けれどそれ以前まで確かにあった、二人の間の密接な甘い雰囲気は見るも無残に霧散してしまったのだ。 ああ、儚い蜜月だった。 もう、先輩―後輩というほどの関係性すら、あるのかどうか怪しい。 お互い目を合わせないように毎日必死で、こうなれば完全に他人だ。 「アーサーが」 ぽつりと切り出したフランシスは、その固有名詞が切り札だと知っているのだろう。冷たいテーブルの感触を頬に感じながら、見上げた顔はいやらしかった。 敢えて、無関心を装って無視してやる。 「寂しそうだぞ。お前をあんなに猫っかわいがりしてたのに」 ふざけるな。 心の中で悪態をつく。 飼い猫に手を咬まれた気分ででもいるというのか。 アーサーが自分のことをそんなふうに見ていたのなら、こちらから願い下げだ。アルフレッドが望んだのはそんな関係ではなかった。 君と対等に生きていたかった。あわよくば、君をこの手で抱きしめて守りたい。 何も言わないアルフレッドに興醒めたのか、フランシスはため息をついた。 気づかれないように唇を噛む。 ――こんな男の、どこがいいんだ。 フランシスに向けられて、アルフレッドには向けられない信頼。 泣いても詮無いとわかっている。アルフレッドは大人になったのだから。 言い聞かせても、熱くなる目頭が忌々しい。 「お前、ひょっとしてあの時、聞いてたの?」 それまでのからかうような口調から、急に真面目なトーンになったフランシスの声音に、ぴくりとアルフレッドは視線を動かした。 「……あの、とき?」 さすがにこれは、無視できなかった。 久々に震わせた声帯は、みっともない掠れた声を紡ぎ出す。 「お前、扉の外にいただろ」 これは決定打だ。間違いなく彼は、あの日の、あの倉庫での密談の話をしている。 アルフレッドは不機嫌な顔を装って、のそりと体を起こした。冷えた頭がガンガンする。 「……聞いてない」 フランシスの出方を窺うように、恐る恐る口に乗せた。 また、餌をちらつかされて遊ばれるだけなら、ぜひご勘弁願いたいところだったから。 「本当は聞こうと思ったんだ。でもイヴァンが来て――」 痛む頭を押さえて、足元を見つめながら喋った。 飾ることなく真実を語ったのは、それと引き換えに、アルフレッドも真実が欲しかったから。 不自然な沈黙が降りる。先程まで事務所にはもっと大勢の人間がいたはずなのに、いつの間にか、フランシスと二人きりだ。それで彼も、こんな話を持ち出してきたのだろう。 「……教えてくれないんだろう?」 「アーサーの気持ちを考えたら、俺には言えないねぇ」 また、あの忌々しい、からかうような口調。 ぎゅ、と深く眉根を寄せれば、ふと苦笑する大人びた顔。まるきり子供を宥める大人の体で。その状況に抗えない自分が悔しい。 「でも、お前も、聞かない方が幸せだと思う」 「……俺?」 「お前に関係のない話だとでも思ってたのか? バカだねぇ。だから言ってんだろ? アーサーの頭の中は、いつもお前のことでいっぱいなんだ。今も、昔も」 「昔」 「そう、昔から、だ」 やけに意味深な顔をして言い含めようとするから、もやもやした胸の中はつかえて苦しくて、問いただそうと口を開いた瞬間、それまで怠惰な空気の流れていた事務所に、慌ただしい騒音が舞い戻って来た、それも至極唐突に。 バタバタバタと走る音、乱暴に開け放たれたドア。 ぜえはあと喘ぐ息まじりに、切羽詰まったトーリスの声。 「フランシスさん! ……たっ、大変です!」 店内は惨憺たる有様だった。 客や店員の悲鳴と、ガタガタと椅子やテーブルが倒れる音、ガシャンと食器の割れる音。 台風の目のように、騒ぎの中心にいて自身は揺るぎもしない黒服の一団。明らかに異様な光景だった。 「大人しくこちらの話を聞いてくれないか。こちらとて、事を荒立てたくはない」 黒服の先頭に立った男が言う。落ち着いた金髪をオールバックにした、背の高い男だった。 「お前らと話すことなんて一つもねェよ。帰れっつってんだろ、営業妨害で訴えられてぇか」 強面の一団に怯むことなく、無防備極まりない格好でたった一人、対峙していたのはアーサーで、その乱暴な口調も顔つきも、アルフレッドがかつて一度も見たことのないようなものだったために、思わずその場で歩を止めた。本能は後ずさることを望んでいたが、フランシスが歩みを止めなかったので、なんとか思い留まったにすぎない。 「おい! 誰かそこの元ヤン止めろ! 頼むから手ェ出すなよアーサー!」 慌てた様子でフランシスが二人の間に割り入る。 アーサーを背に庇うように、というよりは、アーサーを押し留めるように前に出たフランシスを一瞥して、男は再び口を開いた。 「お前がこの店の責任者か?」 「責任者は不在だ。悪いけどまた出直してくれよ」 「そうしよう。次に来る時までに、そこの出来の悪い店員に再教育を施しておくんだな。俺はヴァルガス・ファミリーの参謀、ルートヴィッヒという」 「誰が……ッ!」 出来の悪い店員呼ばわりされたアーサーは握りしめた拳を震わせ、今にも殴りかかりそうな雰囲気であったが、フランシスの左手が、アーサーを制している。 「行くぞ」 そんなアーサーを嘲笑うかのように口角を上げたルートヴィッヒは、黒服集団を従えて踵を返した。 ぱたん、と扉が閉じ、ちりんちりん、と上部に取り付けられた鈴だけが、細かく振動を続けている。 ぎりぎりと音がしそうなほどに歯を食いしばって、アーサーはフランシスの左手を乱暴に振り払った。 「塩まけ塩ッ!」 激怒した様子で、遠巻きに事態を見守っていたライヴィスを怒鳴りつける。 「は、はいっ!」 青ざめたライヴィスが走りだして間もなく、倒れた椅子の脚に躓いて転倒した。 大丈夫ですか、と客に声をかけて回るトーリスの声に、呆然と佇んでいたアルフレッドの意識はようやく覚醒した。 自分もお客様の安否を気遣わなければと、固まって動こうとしない足を叱咤するあいだ、アーサーが腹立ちまぎれにか、転がっていたテーブルを思い切り蹴りつけているのを見た。 何の非もないライヴィスを感情に任せて怒鳴りつけたことも、店のことよりも自身のプライドを優先したことも、すべてがアーサーらしくない振る舞いだった。 そこまで考えて、自分の知っていた「アーサーらしい」とは一体なんなのだろうと、胸が締めつけられるような苦しさに、視界が滲んだ。 (2008/3/11)
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