夢を、みた。 子供の頃の夢だった。 何故だかとても不安で寂しくて、ぽろぽろぽろぽろ、流れ落ちる涙を制御することができない、夢。 そんな自分の頭を優しく撫でてくれる手があった。それだけで、胸がじわりと温かくなっていって、あんなにも心を占めていた不安や恐怖はどこかへ吹き飛んでいってしまう。 ――大丈夫、大丈夫だよ、アルフレッド。 心地のいい声。 幼い自分はは、どことなく掴みどころのない優しい笑顔に、応えるべく口を開いた。 かの人の名を、呼ぶために。 「……お前、よくそんなところで寝れるな」 呆れたような声が降ってきて、ぱちりとアルフレッドは目を開けた。 一瞬、何が起こったのか訳がわからなくて、きょろきょろと辺りを見回せば、蛍光灯の明かりも眩しい事務所のパイプ椅子に、「服」と呼ぶのもおこがましい制服のままで自分は腰かけていて、そんな自分に背後から声をかけたのはこれまた制服姿のアーサーで。 ああ。 徐々に意識が覚醒していく。 今、自分は休憩をもらっていたのだった。座って休んでいるうち、ついうっかりうとうとしてしまったのだ。 妙な夢を見た。そんな記憶だけが残っている。 子供の頃の夢だ。自分はただ寂しくて泣いている。 子供の頃、本当にあんな風に泣いてばかりいたのか、正直に言えば覚えていない。 ただ物心ついたころにはもう母と二人きりで、寂しさなんかに挫けていたのでは、到底生きていけなかったことは確かだ。 寂しいよ怖いよと、泣いてばかりいられた幼少時代がアルフレッドにもあったとするなら、きっとその時だけは、アルフレッドは幸せなこどもだった、ものすごく。 「……最近寝つきが悪いんだ」 神妙ぶった声が出る。別に気を引きたいわけではない。ないのだけれど。 「へぇ」 そっけない返事に、アルフレッドは若干気を悪くした。 見る限り、せわしなく手に持った表に何かを書き込んでいるアーサーは仕事中のようだが、それにしたってそのあしらい方はないと思う。 仮にも二人きりになれば肌を重ね愛を囁き合う関係ではないか。 「『何か悩みでもあるのか』とか、訊いてくれないのかい?」 「お前に悩みなんてあるのか?」 「Shit! 言うと思ったよ!」 変に凝り固まってしまった首の筋を伸ばしながら、アルフレッドは頬を膨らませた。するとアーサーは表を挟んだバインダーから一瞬目線を外して、くすくす笑う。 その笑顔に、軽い既視感。 なんだったろう。どこかで見た、感じた、温かい幸福感。 果てなくぼんやりと霞がかっていて、思い出せない。 思考を飛ばすうち、無関係ではあるのだけれど、ぽんと投げ入れられるように辿り着いた事項があった。 そういえば。 「――君は?」 「ん?」 「あるんだろう? 悩み」 ぱちくり、とアーサーは虚を突かれたように数回瞬きを繰り返した。 ややあって、ようやく思考が追いついたかのように、その顔色を変える。 「ばっ……何でだよ」 頭を振って、バインダーに視線を完全に戻してしまってから、誤魔化すように笑う。 そうやって、フランシスには打ち明けるくせに、アルフレッドには何も話してくれないのか。 「どうやったら、そういう妄想に辿り着くんだ? え?」 「妄想じゃないよ」 やれやれとかなんとか言いながら、アーサーはアルフレッドに背を向けてしまう。完全にシラを切り通すつもりらしい。 ――何を話していたんだい、フランシスと、倉庫で。 言いたいのに、言えない。 ここまでカードを切って、なお拒否されてしまえば、立ち直れない気がしていた。 愛だのなんだのと言っておきながら、アルフレッドに心を開かないアーサーに感じる、もどかしさと憤り。 今ならまだ、「何をいきなり」とか「妄想」とか言って誤魔化せる――誤魔化されてやれる。 何もここまで自分が熱くなる必要などないのだ。わかっているのに、どうして。 溺れているのは、こちらか、あちらか。 余裕で手を引いていたはずが、いつの間にか。 軽く舌打ちをすると、アーサーが一瞬だけ、揺らぐ瞳をこちらに向けた。 気まずい沈黙が、しばし空間を占拠した。 アーサーは必死に仕事に夢中なフリをしていたが、その背中からは、アルフレッドを意識していることがありありと分かる。 滑らかな背中。柔らかな双丘に、すぐ上で揺れる黒のリボン。 すべてに咬みついて、すべてアルフレッドのものにしてしまいたい。 少し前まではそう思っていた。けれど胸に湧き上がってくる痛烈な想いは、そこだけに留まらなくなっているということに、気づかされた。どうしようもなく。 体だけじゃ、なく、すべてが欲しい。 アーサーが今何を感じているのか、何を考えているのか。 すべて、アルフレッドのものにしてしまいたい。 ああ。その心をも暴いて啜り尽くしてしまえればいいのに。 気まずい空気を打ち破るかのように、やがてアーサーは明るい声を出した。どうやら、ここにいなければならない理由は消えたらしい。彼のバインダーに挟まった表は、細かい文字で覆い尽くされている。よくはわからないが、備品の確認か何かだったのだろう。 「じゃあ、お疲れ」 何事もなかったかのように笑って出て行こうとするから、思わずその背に抱きついた。 「……っ、ア、ル……」 アーサーは一瞬息を飲んで、体を硬くする。 けれど、ただ抱きついて黙ったままのアルフレッドに他意はないと悟ったらしい、やがて大きく息を吐いて、小さな子供をあやすように笑った。 「……甘えただな」 どうしたんだ、と大人びた声。 「君のせいだよ」 アーサーが、アルフレッドをいつまでたっても対等と認めてくれないから。彼の心を占める重要な懸案さえ、明かしてくれないから。 アーサーはそっとアルフレッドの腕を解くと、自らアルフレッドの背に腕を回し、穏やかな手つきで頭を撫でた。 アルフレッドの方が背も高く体格だっていいのに、その包容力ときたら、悔しいなんてものじゃない。惨めすら通り越して、いっそ気持ちが良いくらいだ。 このままずっと、温かな体温に顔をうずめて、甘えていられたらいいのに。 そうしてすべて誤魔化されて、心地よい怠惰に浸っていようか。結局、アルフレッドの不満は何一つ解消されないままに。 「いい匂いがする」 「そうか?」 髪を透く腕。 アルフレッド、と優しく呼ぶ声。 不安も寂しさも、何もかも吹き飛ばしてしまう、温もり。 「……キャラメルソース」 耳元で笑う声が心地いい。 「さっきまで、延々パフェ作ってたからな」 ――大丈夫、大丈夫だよ、アルフレッド。 夢を、みた。 唐突にアーサーの背後でドアが開いて、びくりとアーサーは身じろいだが、心地よさに弛緩しきっていたアルフレッドの体はすぐには動かなくて、突然の闖入者に、二人抱き合った姿のままで応対するハメになった。 「……ええと、アルフレッドはともかく、お前は仕事中、だよな?」 「ノックくらいしろバカァ!」 今は見たくない顔だった。 せっかくのぬるま湯も、冷水に変わる。 「……俺が引き止めたんだぞ。背中にキャラメルソースがついてたから」 笑いたいのに笑えない。 こんなにも暗い顔で、こんなにも冷たい声で、自分は何を言っているのだろう。 「そうかぁ? 俺にはいちゃついてるようにしか見えなかったけどな」 「フランシス!」 アーサーの注意を向けるためだけに発された、こんなデリカシーのないセリフにいちいち赤くなってやることなんかないのに。本当に忌々しい。 アーサーをからかう腕前を見事に披露して、そんなことで、アルフレッドよりも優位に立ったと言いたいのだろうか。 ああ、違う。彼はとっくの昔から、アーサーの信頼なら勝ち得ている。アルフレッドなど及びもつかない、正真正銘のアーサーの「同僚」なのだ。頼られもしない甘やかされてばかりのアルフレッドからみれば、なんと遠い位置。 「アルフレッド、お前アーサーのこと好きか?」 にやにや笑って、一体どこまで知っているのだろう――どこまで聞いたのだろう、嫌な奴。 「好きだよ」 挑発するように言えば、傍らのアーサーが息を呑んだ。 そういえば彼には面と向かって、アルフレッドから「好きだ」と言ったことはなかったように思う。しかしそんなことはどうでもいい。今はフランシスを黙らせることができればそれで。 「……だってさ。困ったねぇ、アーサー?」 なのにフランシスの態度はあくまで余裕で、余計にアルフレッドを刺激する。 「お前、もう黙れよ……っ!」 アーサーが構ってやることにもいい加減、いらつきすぎてどうにかなりそうだ。 「はいはい。……お兄さん、電話しに来ただけなのに酷くない?」 「俺はもう出るからなっ! これ打ち込んどけよ!」 叩くようにバインダーをフランシスに押しつけて、アーサーは足音も高く、事務所を後にした。フランシスはいとも暢気な顔で、ひらひらとその後ろ姿に手を振る。 「おう、お疲れー」 二人きりだ。 訊くなら今しかない。 アーサーが、フランシスにしか打ち明けなかったこと。 ごくりと喉を鳴らしたアルフレッドの前で、フランシスは宣言通り電話を手に取りつつ、パソコンに向かい、今しがた渡されたばかりのバインダー片手に作業を始めてしまう。 とてもじゃないが、邪魔できる雰囲気ではなかった。それくらいのことはアルフレッドにだってわかる。 仕事に私情を持ち込むのは子供の証だ。もうそんなことは卒業しようと心に誓ったのだから。 逸る気持ちをやっとのことで宥め、立ち上がった。 ここにいたのでは、休まるものも休まらない。 コーヒーでも買いに行こう。それには、着るものを着なければならないのが、この店の面倒なところだ。 (2008/2/17)
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