「アルフレッド君、何してるの?」 重い金属のドアごしに、くぐもったアーサーの声を必死に捉えようと全神経を集中させていたアルフレッドは、突然、むき出しの肩を叩かれて、文字通り飛び上がるところだった。 「べっ、べつに……」 慌てて平静を装い振り返る。 だからといって、声が中に聞こえては、立ち聞きが露見してしまう。音量を落とすことも忘れない。 背後に立っていたのはイヴァンだった。真っ白なコックコートが、大きな体をさらに大きく見せている。 「サボッてないで、働いてくれるかな。あと、そこどいて」 普段は無害そうな、それでいてどこか不穏な笑みをにこにこと浮かべているイヴァンが、疲れているのだろうか、ピリピリした声音で、見下すように言い放つ。そういえば、先ほどもこんな居丈高な物言いで、アーサーに説教を垂れていたのだったか。 せっかくアーサーの悩みが聞けそうだったところを邪魔されたこともあって、いやにそれが癇に障った。後ろめたいことを指摘されて、逆上するような心境だ。 「いいだろ別に、今、暇なんだから」 ちょうど終電で、大量に客が帰ったあとの時間帯だった。平日で金曜でもない今日、この後の客足はまばらなのが常だった。 「暇なら掃除でもしてれば? 忙しい時間にも、大して働いてないくせに偉そうに」 そこまで言われて、声量を落とすだの、その場をごまかすだのと言っていられない。アルフレッドの頭の中は怒りで真っ赤になって、その他のことはすべて吹っ飛んでしまった。 確かにアルフレッドは、キッチンスタッフをまとめるイヴァンからすればまだまだ使えない人材だろうが、アルフレッドはアルフレッドなりに精一杯働いているし、そこそこ疲れてもいるのだ。 怒ったのがそのまま顔に出たのだろう、イヴァンはそれを見て、ようやくいつもの余裕を取り戻したようににこりと、得体の知れない笑みを浮かべた。 「いつから僕に口応えできるような身分になったのかな、アルフレッド君は。最近、アーサー君が甘やかしてるからって、何か勘違いしてない?」 その件なら、自分なりに思うところがあって、自分の中ではもう反省済みなのだ。 そういうことを人から言われると、勝手なことに腹が立つのが人情というもので、若いアルフレッドはそうした感情のコントロールが苦手だった。 どうしてお前に今更、そんなことを言われなくちゃならない。 「君こそ何様のつもりだい? 感情に任せて人を貶めるようなことを後先も考えずネチネチネチネチと。そんなんで、人の上に立つ資格があるとでも思ってるならとんだ勘違いだぞ!」 思わず、店中に響き渡るような声を上げてしまって、しまったと思った頃にはもう遅かった。ガチャリ、と背後で重たい扉が動く。 「ちょっとお前ら、何してんだぁ?」 用がなければ立ち寄らないような、薄暗い倉庫前で、ほぼ裸の男とコックコートの男が睨み合っている。奇妙極まりない光景だった。 にこやかな表情のまま青筋を立てたイヴァンに、そこそこ彼との親交も厚いフランシスは軽くため息をついて、アルフレッドの両肩を宥めるように叩いた。 扉の向こうでは、アーサーの不安げな瞳が揺れている。 なぜアルフレッドがここに、という戸惑いの顔だ。立ち聞きは、バレてしまっただろうか。しかし肝心なところはまったく聞いていないし、この状況ではアーサーも、聞かれていないと信じたいところだろう。 「ほら、お前は戻りな。イヴァンは――」 軽く背を押される。 「僕はただ、キッチンペーパーが切れたから取りに来ただけだよ」 「そうか。アルコールも切れかけてたろ。持ってけ」 「そんなに持てないんだけど」 「じゃあ俺が持ってく」 ほいほいと話を進めて場を取りまとめたフランシスに、ふーとアーサーは息を吐いた。 それがなんだかとても悔しくて、惨めで、アルフレッドは寄せた眉根を戻すことなしに、ホールに駆け戻った。 いつだってアルフレッドは問題を起こすばかりで、アーサーに迷惑をかけるばかりで、フランシスのように、親身になって相談を聞いたり、助け舟を出したりすることもできないのだ。 イヴァンを宥めるような、大人っぽい深い声を思い出す。 でもあんな風にはなれない。それはその時点で、負けだということだろうか。 キッチンとホールの窓口、カウンター状になったデシャップと呼ばれる料理提供台の前で、ぼーっと店内を眺めていると、ひょい、とキッチンから顔を覗かせた小柄な影が笑う。 オープンキッチンの形になった店内は、ホールからでもキッチンの様子がよく見える。裏の洗い場や大きな冷蔵庫は例外だが。 「イヴァンさんは?」 「知らないよ」 今一番聞きたくない名前を出され、ぶっきらぼうに言い捨てれば、デシャップの向こうで菊は笑った。 「すごい声でしたね。さっきの」 短く切り揃えられた黒い髪に、吸い込まれそうな黒い瞳、真っ白なコックコートがよく似合う。 軽い調子で話を続ける今も、菊の手元はトントントン、と小気味よいリズムを刻んでいる。 仕事もせずにむくれているだけのアルフレッドは、それに気を留めることもできない。 「早くキッチンペーパー、欲しいんですけどね……」 しばらく戻ってこない様子を見ると、まだ三人で話し込んでいるのかもしれない。内容がアルフレッドの悪口で、またアーサーが甘やかすだのなんだの、そんな展開になっていたとしたら。 考えるだけでぐらぐらと、腸が煮えくりかえるような気分になる。 ちらり、とそちらの方向に目を向けても、ここからは死角だ。 だらだら話しやがって。いくら暇だからって、いい気なものだ、とつい思ってしまう。 こんな子供っぽい、自分本位な視野の狭い感情は、とっくに卒業したはずだったのに。 そう、全部アーサーに教えてもらったものだ。彼を抱いて、忘れて、もっと大人に、もっと「できる男」に、なろうと思った。 「イヴァンさんの態度なら、気にしない方がいいですよ」 自己嫌悪が募ると、思考はどんどんネガティブな方向に落ち込んでいくし、ささいなことにもイライラするしで「気にしてなんかないさ」と反論したかったけれど、菊の声があまりにアルフレッドへの気遣いに満ちていたので、やめた。 こんなに優しい人にまで、八当たりしたら、それこそ立ち直れない。ヒーロー失格だ。 「忙しいと私なんて、コルコル言われてばっかりですから」 サーッとステンレスのシンクを打つ水の音。少し声を拾いづらくなる。 「でも何も言えないんですよね。確かに一番働いてるの、あの人ですから」 そんな風に、人を認めることなどアルフレッドにはできなかった。 いつだって正か負か。白黒はっきりつけておいてくれなくては、なんだかすっきりしないではないか。 嫌な人だけど、悪い人ではないとか、いいところもあるとか。 何を信じたらいいのだろう。 「あの人の、私のことも他のメンバーのことも思い通りにしようとする態度は気に入りませんけど……独占してないと、落ち着かない人なのかな、何もかも」 「彼が店の権利も主導権も独占しようと企んでることなんて、みんな知ってるだろ?」 「ええ、そうなんですけど。でも単に、イヴァンさんは現状に不満があるだけなのかもしれません」 「不満?」 そこで「すいませーん」という客の声がして、アルフレッドは大股でそちらに向かった。ざっと見たところ、トーリスなど他の面子も、皆手が塞がっているようだったから。 いつもの調子でオーダーを取って、てきぱきと働いていると、ひしゃげていた気持ちが、しゃんと立ってくるのを感じる。 自分は役立たずなんかじゃない。今、現にこうやって店を回して、お金を生み出して、経済を動かして、生きて、明日を切り開いている。 軽い足取りで菊のところに戻る。オーダーを受けながら、何事もなかったかのように先の話を再開する菊もアルフレッドも、まさに今、労働の真っただ中で、いつの間にか存分に身も心も染まってしまっているのだ。 「あの人は元々、有名なロシア料理店のシェフだったんですよね。各国の有名人や大臣が来るような立派なお店だったらしいです」 「へー、そうなのかい?」 「そうなんです。それが色々あって、店がなくなって」 彼の故郷は北国だった。 易々と、のうのうと、人々が経済活動に専念していられる、そんな状況は実はとても恵まれたものなのだと、身をもって知っている、彼。 色々、の具体的内容はまったく想像がつかなかったが、何かどうしようもできない社会の流れだったのだろう。それだけはなんとなく分かる。 なんと虚しく、なんと無慈悲な。 「このお店って、接客がメインなんですよね。もちろんこのお店のコンセプトは素晴らしいと思いますし、私も楽しく働かせてもらってますけど、でもやっぱり、キッチンスタッフからすればちょっと寂しいんです」 「寂しい?」 「ええ、そういった一流料理店では、やっぱり料理がメインでしょ? おいしい料理が食べられて、そしたら、料理を持ってくる店員さんが多少老けてようが、多少態度悪かろうが、どうでもいいってもんです」 そんな風に言い放たれると、「グラスの飲み口を持つな!」とアーサーにぶっ叩かれた痛々しい記憶は何だったのかと、多少虚しい気がしてくる。 作り笑顔も板についた。スースーする制服で動くことも、何の抵抗もなくなった。 「でもここは違います。ここは制服もそんなですし、何よりも接客第一のお店です。料理の方がオマケみたいなもんで、来る人はみんな、あなた方の笑顔やおしゃべり、くるくる働く姿に癒されて帰っていく。雰囲気に酔って、開放感に浸って」 ガスコンロに向かって何かをフランベしている菊の横顔は明るい炎に照らされていたが、表情はよく見えなかった。 じゅわじゅわと小気味いい音、香ばしい香り。 「だからイヴァンさんはもっと、前みたいに腕を振るいたいんじゃないかな。今もメニューを増やしたいって、ずいぶんオーナーとモメてるらしいですよ」 そんなものか、と思う。 一流料理店のシェフだか何だか知らないが、大層なプライドをお持ちのようだ。 こんな店で料理の質を上げても、ぱっと見の値上がりばかりが悪目立ちして、大した利益が上がるとも思えなかったし、それこそ一流料理店からすれば、「若い男で客を釣ってるくせに」と鼻で笑われるだろう。 オーナーの判断は正しい。 けれど、イヴァンの気持ちを想像すると、よくわからないが、もやもやとした晴れない思いが広がる。本当に、よくわからないのだけれど。 「……菊は?」 「え?」 「今のままじゃ、不満?」 菊は少し考えるように、イタリアンパセリの葉をいじくった。 「そりゃ、私も、ワガママ言っていいなら、ほんとはお刺身とかお寿司とか、おいしいものいっぱい出したいな、と思いますけど。専門店でもないのに、新鮮な材料は確保できませんし、それだけコストも上がるでしょう? 詳しいのは私だけですから、色んな責任が私にのしかかってきますよね。そこまでして出したくもないな、と。――それが本音です」 ふふふ、と笑って菊は湯気の立つ皿を差し出した。 「相変わらず……食えないね、君は」 伝票を確認して、料理を受け取る。 「伊達に場数踏んでませんからね。少しは現実的にもなります」 そう言う菊は、アルフレッドよりずいぶん年上なのだと聞いたが、アジア系の幼い顔立ちは、ともすれば子供にも見える。 「だからイヴァンさんの情熱とか、すごいなって、少し尊敬したりもするんですよ」 「あれは情熱じゃなくて、固執っていうんだ」 言う側から、キッチンペーパーを持ったイヴァンが戻ってくるのが見えたので、アルフレッドはさっさと料理を運ぶべく、デシャップを離れた。 (2008/2/13)
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