営業が始まってからも、アーサーはまったく「らしく」なかった。
 アルフレッドと目が合うたびに、言い慣れたはずの接客用語も噛むし、やたらとむき出しの臀部を気にしては、馴染みの客に「やっと羞恥プレイの醍醐味がわかるようになったの?」とからかわれたり。
 そんなアーサーの様子がかわいくて可笑しくて、しばらく目で追っていたのだが、そうしてばかりもいられず、仕事に追われるうち見失ってしまった。
 やっと手が空いた頃、店内を見渡すも、その姿を見つけることはできない。
「おいアルフレッド、休憩行っちゃえよ」
 だらだらしていたら、擦れ違いざま、フランシスにそう言われて、素直に控え室へ向かった。
 ガチャリ。
「あ」
 ジャンパーを羽織って、紅茶を飲む姿。
 なんだ、ここにいたのか。
「……やあ。君も休憩かい?」
「ん、もう出る。あと10分くらい」
「いいじゃないか、混んでないし。喋ってこーよ」
 傍の椅子に腰を下ろすと、アーサーは距離を取るように若干椅子を引いた。
「きょ、今日は棚卸しするから……」
 そわそわと辺りを見渡して、やはり落ち着かないアーサー。
 よく見れば、事務所に二人きりだ。
 遠くからかすかに、客の歓談が漏れ聞こえてくるのみ。
 二人きり。
「お前、メシは?」
 二人きりの静寂を誤魔化すかのように、殊更明るい声でアーサーが問うた。
「食べるよ」
 キッチンで手配してもらうこともできるのだけれど、今そのためにこの場を離れるのは、なんだか惜しい気がしたので、ぐずぐず留まっているだけで。あと10分しかないのだ、こうして彼と隣り合ってのんびり語らっていられるのは。
 肝心のアーサーは、アルフレッドを意識して、過度に緊張しているようだけれど。
「……そういえば、朝なんか言いかけたろう、何だったんだい?」
「あ……その……」
 やっぱりなんだか落ち着かない。言いにくい話のようだ。
「ご、誤解を、だな、解こうと思って……」
「誤解?」
「あ、なんだ、その、……確かに俺の言い方も悪かった。多分に悪かった。反省してる」
 宙を彷徨っていた翠の瞳が、ぴたりとアルフレッドの碧を捉え、アルフレッドが続く言葉に耳を澄ませた瞬間、コンコン、と硬いノックの音がした。
「お、お疲れさまでーす……休憩いただきます」
 どうやら店はよほど暇らしい、白いコックコートに着られているかのような小さな体躯が、びくぶると震えながら扉を開けた。
「ライヴィス! お前も休憩か?」
「あ、は、はい……イヴァンさんが行ってこいって……」
「じゃあキッチンが暇なうちに、棚卸ししてくるかなー……」
 飲み終えた紅茶のカップと、棚卸し用の表が挟まった黒いバインダーを手近に引き寄せて、さっとアーサーは立ち上がった。
 イヴァンはキッチンを束ねる料理長だ。腕は確かだが野望高い男、というのがフランシスの言で、経営陣との衝突も耐えない。
 ジャンパーを脱いで、眩しい素肌を晒したアーサーが、単身そんなキッチンに乗り込むのかと思うと、なんだかアルフレッドは気が気でなかった。いつもなら気にも留めないだろうに、本当に人間の意識というのは不思議なものだ。
 この手でその体を愛撫し鳴かせ乱れさせた後では、同じように平静ではいられない。
「キッチン行くならコックコート着なよ、火傷するよ」
 自分で思ったよりも余裕のない声が出てしまった。その検討はずれな警告に、アーサーはきょとんと首を傾げた。
「そのつもりだけど……」
 あまりの気まずさに、巧い言い訳も出てこない。
 アーサーだって、その布一枚の格好が極めて特殊な状況下でのみ罷り通るものだということを十分承知しているに違いないのに、妄想ばかりが先走って、妙なことを言ってしまった。なんだか格好悪すぎる。
「あ、じゃあ、頑張って……」
 切れ切れの言葉で誤魔化してみたところで、気まずさはまったく拭えない。アーサーが白いコックコートと黒いズボンを身につけている間、奇妙な空気が控え室に流れて、アルフレッドは一心に、握り締めた自分の手に視線を注いでいた。
 ああ、そういえば、アーサーの言いかけた「誤解」の内容は、結局聞けずじまいだった。
 いったい何に誤解が生じたというのだろう。


 いつものように、何事もなく営業が終わる。毎日毎日、同じ作業の単調な繰り返しだというのに、その中でも、やはり少しずつ何か変わっている。訪れる客はもちろん毎日違うのだし、団体の予約が入ることだってある。でもそれだけではなくて、アルフレッドたち従業員の心境も、やっぱり毎日違うのだ。
 そわそわ、だらだらと。
 一人、また一人と従業員を吐き出して、だんだん静寂に包まれていく店内。
 なんとはなしに留まっていたら、いつの間にか、結構な時間になっていた。
「帰らないのか?」
 すっかり身仕度を終え、品のいい鞄を下げたフランシスがドアの前で振り返った。
「帰るよ」
「まだアーサーいるからいいか。電気消せよ」
「うん」
「じゃ、お疲れー」
「お疲れさま」
 フランシスが帰ってしまうと、控え室に一人、残される形になる。
 まだ着替えもせずにぼーっとしていたアルフレッドは、肌寒さを感じて立ち上がった。
 去り際にフランシスが漏らした「まだアーサーがいる」という言葉に惹かれ、ふらふらとからっぽのホールに出れば、レジ前に人影がある。
「アーサー、一緒に帰ろうよ」
 何気ない顔で声をかければ、アーサーは一瞬目を丸くした。
 アーサーの家とアルフレッドの家は、実を言えば逆方向なのだが、アーサーがそんなことを知るはずもない。
 アルフレッドはにこにこと笑みを浮かべた。
「ええと……俺、まだレジ締め終わってないから……」
「待ってる」
「いや、悪いし……」
 たった今、店内に残っているのはアーサーとアルフレッドの二人きりだ。そのことにアーサーも気がついたらしい、暗い店内の照明でも、はっきりと顔が赤いのがわかった。
「俺に何か話したいことがあったんじゃないの?」
「あ、そ、そっか……悪いな。着替えてていいから」
「わかった」
 にこやかに頷いて控え室に歩を進めたものの、あられもない姿で一心に仕事をするアーサーを見るうち、気が変わってしまった。
 一度起き上がってしまった若い疼痛は、簡単には鎮まってくれない。
 すぐに控え室に戻ってきた本人を、明るい蛍光灯の下に見て、ますます押さえられない熱を感じる。
「悪いな、これ金庫にしまったら終わりだから」
「うん」
 まだアルフレッドが制服のままでいることに、特に疑問は感じないらしい。
 事務所の金庫にレジ金をしまう、無防備な背中。
 抱き締めたら滑らかで、温かいのだろうか。
 ごくり、と喉が鳴ったのに気がついたのか否か、アーサーは「俺、ガス栓締めたか見てくる」と慌ただしくまた店内に戻っていってしまった。
 アルフレッド自身もホールに出る。
 アーサーはキッチンに行ったのか、姿は見えない。
 閉店後の店内は意志を持った生きものの胎内のように、暗くぽっかりと、アルフレッドを包んでいる。
 営業中の賑わいがまるで夢か幻だったかのよう。誰もいない。外の声も光も、ここまでは届かない。
 テーブルの上に、逆さになって乗せられた椅子の脚はさながら銀に光る牙のようだ、と思った。
 逸る衝動のままに、振り出した腕でそれらを薙ぎ払えば、椅子は数脚もつれあってガチャンと飛んだ。床を滑り、壁に当たって止まる。
「ちょ……アルフレッド? 何してんだ?」
 音を聞きつけたのか、慌ててキッチンから出てきたアーサーを、淀んだ瞳で捕えながら、ここで同じように、彼に怒鳴られたときのことを思い出していた。
 あのときは、ただ自分しか見えなくて、ただ腹立たしくて。
 散乱した椅子を避けながら、アーサーが近づいてくる。
 今では、ただ狂おしいほどに彼が欲しい――。
 黒いエプロンの裾から見え隠れする、白い太腿。
「アルフレッド?」
「ごめん、ぶつかっちゃった!」
 にこやかに笑えば、アーサーは安心したように息を吐いた。
「ばかだなぁ、お前は……」
 ほら、なんて言いながら椅子を拾い上げようと屈み込んだ背中。隙だらけの彼を、ぎゅっとこの手に絡め取った。
「……あ、アル……フレッド……?」















 またまた申し訳ないことに、5.5話に続く予定です。


(2008/2/1)



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