「そこ座ってろよ。茶くらい出すから」 アーサーの家はやはり店から徒歩圏内で、立派なマンションだった。アルフレッドの部屋とは比べ物にならない。給料の差をひしひしと感じた。 示されたソファに腰かけて、改めて状況の奇妙さに思いを馳せた。 いったいどうしてせっかくの休日にアーサーと顔を合わせて、挙句、家にまで上がり込んでいるのだろうか。 まったく、とんだ成り行きだ。 しばらくすると、ふわりと紅茶のいい香りがして、お盆を手にアーサーが現れた。 アルフレッドは、どちらかといえばコーヒー党だったけれども、一口含めばふわりと広がる風味に、心底感動した。アーサーの紅茶を入れる腕がこれほどまでとは思わなかった。 店でも仕事ができて、期待されているし、ひょっとしたらこの男は、すべてが完璧な、嫌味な才能を持ち合わせた奴なのかもしれない。そう思って何気なくお茶請けに出されたスコーンを口に入れた瞬間、アルフレッドは盛大にむせ返った。 「こ、これ、ひどい味だな! どこで買ったんだい?」 人間の食べ物じゃないよ、文句言った方がいいよと畳みかければ、隣に腰を下ろしたアーサーはやけにムキになって「そんなことねぇよ!」と自身もスコーンを頬張った。 「ぶっ……」 「……ほら、最悪だろ?」 「こ……、これはちょっと失敗しただけで、いつもはもっと上手く焼けるんだからなっ!」 「え……」 君が焼いたの、と明らかな嫌悪を示して問うたのに、本人は憚ることなく頷いて「出かける前にな、暇だったから」なんて聞いてもいない補足情報すら喋り出す。 「へー……」 食べ物とは思えないスコーンを指でつつきながら、アルフレッドは口直しに紅茶を一気飲みした。 「紅茶はおいしいね、紅茶は」 嫌味のつもりで言ったのに、アーサーはそれで瞳を輝かせて、いそいそと立ち上がる。 「そうか? おかわりいるか?」 まったく年上とは思えない落ち着きのなさだ。 「じゃあ、お願いするよ」 憐れんで微笑みを向けてやれば、何が嬉しいのか頬を染めて笑う。 ――ひょっとして、友達いないのかな……。 そう思ったのはまったくの思いつきだった。ただ、このはしゃぎようからなんとなく、そんな印象を受けただけ。店ではフランシスや上層部の人間と仲良くやっているようだが、こんなふうにプライベートで会ったり、家に招いて手製の菓子を振る舞ったりすることが珍しいのかもしれない。そもそもが年中無休の客商売だから、店の人間で休みが重なる奴も限られるし、いたしかたないのかもしれなかった。 だからといって仕事関係以外にも人脈は持つべきだろう。 「君、結婚はしてないよね。……家族は?」 ポットを持って戻ってきたアーサーに問えば、ふと真面目な顔つきになって、何か思い巡らすように目を細めるから、何気ない世間話のつもりで訊いたアルフレッドはどぎまぎしてしまった。 ひょっとしたら、禁句だったのだろうか。 「……両親は仲悪くてな。弟が一人、……いたけど、もう十何年も会ってない。――お前は、お兄さんがいるだろ」 突然振られて、ぱちくりと目を瞬いた。アーサーは優雅に紅茶を飲んでいる。 「……なんでわかるんだい?」 「なんかそんな気がした。甘やかされて育った弟気質っての?」 はははと笑ったアーサーに苦い顔を返して、アルフレッドは自身の家族のことを思い出した。物心ついたときには、既に母と二人きりだった気がする。母は父や兄のことを話題にするのを嫌ったから、兄といっても、うっすらとかわいがってもらっていた記憶が残っているのみで、顔も名前もよく思い出せない。母も早くに亡くなり、アルフレッドは単身、夜の繁華街に飛び込まねばならなかった――生きるために。 父や兄はどこかで生きているのだろうか。 母には親戚もいなかったから、アルフレッドが葬式を出した。名前もわからない父には連絡の取り様がなくて、またその必要性も感じなかった。母は父を嫌っていた。あの人から解き放たれて私は自由になったのだと、いつも言っていたから。 「甘やかされただって? 俺だって苦労して生きてきたんだ。両親は早くに離婚して、俺を育ててた母親も二年前に死んだ。父の名前も兄の名前も覚えてない。今は正真正銘の天涯孤独さ」 不貞腐れたように言い放ったその台詞を聞いて、アーサーはがちゃりとカップを倒した。半分ほど残っていた紅茶がテーブルクロスの上に広がる。 「あ、悪ぃ。……手が滑った」 布巾を取って戻ってきたアーサーは、先程までの浮かれようが嘘みたいに、ぼんやりした様子で黙ってしまったから、アルフレッドは軽率に不幸自慢をしたことを後悔した。 「……ごめん、変なこと言ったかな。別に今の生活も、結構気に入ってるんだけど」 「あぁ、そうじゃないんだ。……大変なんだな、お前も」 それきりアーサーは、何を話しかけても上の空で、その横顔は何か考え事をしているようだったが、時折アルフレッドの顔をちらちら見ては、躊躇うようにうつむくので余計に気になって仕方がない。 やがて意を決したように唇を湿らせて、顔を上げた。 「あ、のさ……」 「何だい?」 「その、俺いままで結構お前に厳しいこといっぱい言ってきたけど、それはお前の仕事に対する情熱とか、そういうものに対する期待から来てるっていうか、いや、実はそんな立派な理由じゃなくて、多分に私情も入ってたんだけど……その、お前に対する、その、なんだ、あ、あ、愛情みたいなものから出たっていうか……」 なんていうか、と彼の語りはまだまだ続くようだったが、アルフレッドの耳にはまったく入ってこなかった。 ――愛情? 愛情だって? 唐突に、開店前の店内で、「大丈夫か?」と顔を覗き込んできたアーサーの顔が蘇ってきた。 本当に心配そうに、眉根を寄せて。 そして、先ほど街で、偶然出会ったとき、一瞬輝いたアーサーの顔。はしゃいだ様子。引き止めた指。 今までずっとこの男は、こんなふうにアルフレッドを慕ってくれていたというのに、どうして気づかなかったのだろう。 店の中心人物であり、幹部からの信頼も厚い彼に想われていたという実感は、妙に誇らしい気持ちを呼び起こさせ、と同時に、説明のできない強い感情も呼び覚ました。 胸の底からじりじり焼きつけるかのような強い、それでいて幸せな感情だ。 「じ、実はな、俺その……だから、お前に隠してたことがあって……」 耐え切れなくなったアルフレッドは、未だぐだぐだとセリフを継いでいる横のアーサーを、思い切り抱き締めた。 「わっ、えっ?」 アーサーは素っ頓狂な声を上げて固まったけれど、それがまたなんだか胸にじんときて、一層腕に力を込めると、アーサーはやがてすべて受け入れるように体の力を抜いて、しかもアルフレッドの背中に手を回してきたのだった。 狭い二人掛けのソファで男二人が抱き合っているという構図はなんとも奇妙だったけれど、それがこの閉ざされた空間での出来事であると思うと、秘匿の悦びにうずうずする自分もいる。 アーサーは背中に回した手をあやすように動かして、これまで聞いたこともないような優しい声を出した。 「そうか……、お前、知ってたんだな……」 慈しむような声だった。 彼の慈愛の心を、今、ほかでもない自分がこの腕にすっぽりと収めている。これより誇らしいことはこの世にないのではないかとすら思った。フランシスあたりが知ったならどう思うだろうかと想像しただけで、子供っぽい興奮と恍惚が沸き上がる。あの、アルフレッドを舐め切っていた、フランシスが。 「今、知ったんだよ……今まで君が俺にとやかくうるさく構ってきたのも、みんなその『愛情』とやらのせいなんだってね!」 「う、うるさいってなんだよ……! 悪かったな! ……だってつい、気になって仕方なかったから……」 ああ、ああ。 胸に溢れるこの歓喜を、いったいアルフレッドは他にどうすればよかったのだろうか。 アーサーをゆっくりソファに倒して、目を見つめてそっと頬を撫でる以外に。 「ア、アルフレッド……?」 散らばった短い金髪も愛おしく、きっちり第一ボタンまで閉ざされたシャツを見て、そのストイックな着こなしに、どうしようもない劣情を感じたことを思い出す。 ああ、秘められた肌が、アルフレッドに暴かれるのを今か今かと待ち望んでいるに違いないのに。 一度意識してしまったら、何事もなかったフリをして、ただ職場の同僚としてお茶を飲んで語らって、そのまま別れるということはできそうになかった。 一度手に入れた存在を、店の重鎮をこの手に抱いたという誇りを、捨て去ることは到底できない。 それは後から思えばちっぽけで、くだらないプライドで、けれどまさにそのときアルフレッドは必死で、真剣だった。 これで全世界が手に入ったとすら、思ったのだ。 裏3.5話に続く予定です。直接的性描写が苦手な方はそのまま4話にお進みください。 (2008/1/20)
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