翌日。
 重い気分で店の扉を開ける。
 できればアーサーに出くわしませんようにと祈りながら、更衣室を兼ねた事務所に入ると、そこにはフランシスがいた。
「おう、おはよう」
 おはようといったって、もう午後七時半だ。けれどそんなことを気にするような慣習はこの店にはなかったので、アルフレッドも複雑な気持ちで「おはよう」と返した。
 本当は「アーサーは?」と訊きたくてたまらなかったのだけれど、それではまるで意識しているかのようではないか。
 気にするな気にするなと言い聞かせて、黙々と着替えを始める。
 いつもなら、フランシスと他愛ない世間話の一つもかわすのだけれど、昨日の会話を聞いたあとでは、何を話したらよいのかわからなかった。
 アルフレッドが、フランシスを始め、店の主要メンバーにどう思われているのかを知ってしまったあとでは。
 しかしフランシスは、外でアルフレッドが立ち聞きしていたなんて夢にも思わないだろうから、のんきに鼻歌なぞ歌いながら店のパソコンに向かっている。ちらりと見れば、数字がびっしり並んでいて、あれが噂の「事務仕事」というやつなのだろう。
 思えばいつも、店の主要メンバーはこうしてパソコンにかわるがわる向かっていたが、どうして今まで気にも留めなかったのかわからない。自分が店のパソコンを使うのは給与明細を印刷するときくらいだから、他の人もそうなのだろうと、勝手に思い込んでいたのだ。
 暗い気持ちで早々に事務所を出る。すれ違うたび挨拶してくれる後輩さえ、自分を蔑んでいるように見えて仕方なかった。
 ルーティンワークの掃除を淡々とこなし、今日は何事もなく――アーサーに怒鳴りつけられるようなヘマもせず、一脚一脚、椅子を下ろしていく。
 テーブルを漫然と拭いていると、かちゃん、とかすかな音がして、目の前にフォークやスプーンを分けて収めた小さな籠の、タワーが現れた。無論、誰かが運んで来たのだが。
「シルバー、セット組んどいたから。置いとくぞ」
 偉そうに言い放ったのは、昨日、声を震わせて飛び出していったアーサーで、アルフレッドは視線を揺らした。
 まるで何もなかったかのように、平然として。ひょっとしたら、今日は仕事に出てこないかもしれない、くらいには思っていたのだ。アルフレッドはつくづく、自分の考えの浅はかさを知る。
 何があろうとこの男は、自分の職務を放棄したりはしないのだ。それが営業スマイルを振りまくことであると言われれば、いつだって笑っていられる。
 ――期待の新人。
 ああ、真にこの店に必要なのは、こういう人材なのかもしれない。
「……ありがとう」
 アーサーは不審そうに眉をひそめて、うつむき加減のアルフレッドの顔をのぞきこんだ。
「お前、元気ないな。……具合悪いのか?」
 ああ、やめてくれ、と思った。思わず返答に詰まる。
 アルフレッドには、店を支える主柱の一人であるアーサーに、そんなふうに心配される資格などないのだ。本当にバカで自意識過剰で、ちっとも周りが見えていなかった。
「無理するなよ、今日は帰って――」
 それは、他の幹部よりはアルフレッドを買ってくれていたらしいアーサーの立場から考えれば、まったく他意のない言葉だったのだろうけれど、今のアルフレッドにはそれが、まるで「戦力外」だと言い放たれたかのように感じられて、思わずバッと顔を上げた。かちあった視線の先、アーサーの顔は気遣わしげで、アルフレッドは自身のうがった早とちりを恥じる。
「……大丈夫だよ」
「そうか?」
 どうしてこんな日に限って優しいのだろう。そんな価値はないと、知っているくせに。
「無理そうだったら言えよ。あ、かっ、勘違いするなよ、店でぶっ倒れられても困るからな!」
「うん……そうだよね」
 また忙しく去っていった背中に、小さく呟きかけた。
 アーサーが組んでくれたというセットを、一つ一つテーブルに置いていく。磨き抜かれたどのフォークもスプーンもナイフも、紙お絞りも、きちんと揃えられて、きれいに籠に収まっている。
 アルフレッドが組むときなどは、とにかくスピード重視で、入るものさえ入っていればいいというスタンスだから、その差は一目瞭然だ。もっとも、新人の頃、アーサー自身がそのようにアルフレッドに叩き込んだのだから、それで文句は言われないのだが。
 そもそも時間をかけて丁寧に仕事ができるのは、仕事が遅いことを咎められない立場にまで上りつめた人間の特権でもある。
 あの男らしいな、とアルフレッドは思った。自身は全部、そういうことをわかっていて、それで下の人間には何も言わない。
 ああ、いつもこうしてかわされて、無意識に見下されていたわけか。そりゃあ、いくら陰で短慮のかたまりのような悪口を言われたところで、腹も立つまい。
 ――じゃあ、どうして泣いたんだろう。


 久しぶりの休日が、アーサーと重なっていることは知っていた。
 けれどまさか狭い街とはいえ、こんな偶然は初めてのことだったので、アルフレッドは思わず回れ右しそうになった。
 しかし運悪く、とっくに視認されていたらしい、「よぉ、偶然だな」と彼は笑った。ファッションビルのメンズフロア。無論、相手もこちらも、肌を晒しているのは首から上と手首から先くらいで、なんだか変な感じだった。
「買い物か?」
「……まあね」
 店の外で、こんなふうに話すのは初めてだ。なんだかまるで知らない他人のように見える。
 きっちり着込んだスラックスにセーター。彼の裸なんて見慣れているはずなのに、衣服に隠されたその体を、ちっとも思い描くことができない。
 そのストイックな着こなしは、不思議なほどアーサーにぴったりだった。普段あんなふざけた格好で仕事しているとは、道行く誰も思うまい。
 ――服着てる方がエロティックだなんて、どういうことだよ。
 そんな血迷った独白さえ脳裏をよぎって、アルフレッドは慌てて視線を外した。
「……せっかくだから、なんか食いに行かないか? 一人で食べるのも……って思ってたとこだし」
「べつに、いいけど」
 なぜ頷いてしまったのかわからない。少し前までの自分なら、アーサーがとにかく嫌いで、なんでもかんでも反発するのが常だったのに。
 どうやら例の一件で、アルフレッドのアーサーに対する毒気はすっかり抜かれてしまったらしい。
 自分でも複雑な思いで、アーサーについていった。
 店ではアルフレッドを怒鳴りつけてばかりいるアーサーも、今日はなんだかおかしくて、笑顔も他愛ないおしゃべりも多く、どことなく浮かれているようにも見えた。何かいいことでもあったのかもしれない。もしくは、単に仕事とプライベートをきっちり分けるタイプなのかも。
 だとしたらアルフレッドにとっては、ハタ迷惑な潔癖さでしかない。
 人の気も知らないで。
 ――気? 気ってなんだよ。
 自問自答しながら、乱暴に切り分けた肉を口に運んだ。
 ウェイターを生業とする二人らしく、店員が片付けやすいように食器をきれいに重ね、連れ立って店を出た。
 アーサーは奢ると主張して譲らなかったけれど、頑として断った。こんなところでまで先輩風を吹かせて、嫌な奴だと思った。
「じゃあ、また店でね」
 さっさと別れてしまうに限る、と歩き出せば、アーサーは慌てたように背中にタックルをかましてきた。
「ま、まぁ待てよ! なんか用事でもあるのか?」
「……別にないけど」
 けど、アーサーといる理由もない。
「え、えーと、じゃあ俺ん家来ないか?」
「は?」
 アルフレッドは思わず目をみはった。
 いったい何を企んでいるのだろう。
「あ、や、嫌なら、いいんだけど……」
「何かあるのかい?」
「えっ?」
 問えばアーサーはしどろもどろし始める。必死で何か探すように、目線を泳がせた。
「えーと……ま、まぁいいじゃねぇか! 二人でゆっくり、店の将来についてでも話し合おうぜ」
「いいよ……そんなの……」
 アルフレッドにはそんな資格はないし、偉そうに語ってみせたところで所詮は夢物語、若造の理想論なのだろう。そんな道化役はごめんだった。
「お前……最近、なんか元気ないよな。前はほら、理想に燃えてる感じだったじゃねぇか。……あ、でも、嫌なら別の話でもいいし!」
 そう言ってアーサーがアルフレッドの手を取ったことと、空回りしていたアルフレッドの熱意を認めてもらえていたことに、アルフレッドは二重にびっくりして、思わず頷いてしまっていた。















 続いてしまいました……。
 皆様、あたたかいコメントたくさんありがとうございました!
 捏造バリバリのパラレルワールド全開ですが、だからこそのアル×アーサーを楽しんでいただきたいと思います!
 今後は裏にも突入しそうな予感なので、一応裏を読まなくてもつながるようには配慮しようと思いますが、苦手な方はご注意ください。


(2008/1/16)



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