昼間はひっそりと静まり返って、通り過ぎる都会の風の中。けれど夜になれば輝かしいネオンで彩られ、人々の活気に満ちる街の一角に、その店はあった。 Serves you right! 「アルフレッド! お前またグラス割ったろ!」 午後8時、開店間近の店内で、大声を上げたのは、勤続4年目のアーサー・カークランド。 「今日は2個だけだよ」 「割るな、って何度言ったらわかるんだよ、まったくお前は毎日毎日……!」 「しょうがないじゃないか、形あるものはいつか壊れるんだから」 「屁理屈ばっか捏ねてんじゃねぇよアホ!」 バァン、と手に持っていたお盆を思いっきり勤続2年目のアルフレッド・F・ジョーンズの頭に叩きつけて、フン、と腕組みしたその格好はしかし、黒い巻きエプロンにリボンタイ、白さ眩しいカラーとカフスのみといった、少し街中では見かけないような、不思議なものだった。 「トレンチで殴らないでよ! あいたぁー……っ」 頭を抑えて蹲ったアルフレッドも、同様の出で立ちだ。 「サボッてないでとっとと掃除終わらせろ!」 「サボッてないよ! 君が話しかけてきたんじゃないか!」 ぶつくさ言いながら、壁に立てかけてあったモップを掴み、ばしゃりとバケツに突っ込んだ。飛び散った水に眉をひそめて、アーサーは事務室に戻っていく。 「人に偉そうなこと言う割に、自分は働かないんだから」 去りゆくむき出しの臀部にモップを突き刺してやりたいイライラに駆られながら、アルフレッドは舌打ちした。 「なんだよ、先輩面しちゃって……働けよな……」 乱暴にモップがけをしていると、モップの柄が、ふいにテーブルの上に上げてあった椅子の背もたれに当たり、ガチャンガチャンとまるでドミノのように隣の椅子を巻き込んで、総計五脚がフロアに叩きつけられる大惨事となった。 どんがらがっしゃーん、と耳をつんざくような打音。 音は大袈裟だったが、椅子もフロアも無傷のようだ。アルフレッドがほっと一息ついたのも束の間、すぐに怒声とともに、事務所の扉がバァンと開いた。 「何してんだバカァー!」 「……う、ごめんって。でも、椅子も床も無傷だぞ!」 それに、一つ目の椅子を引っ掛けてしまったのは確かにアルフレッドの過失だとしても、その後の連鎖反応は不可抗力だ。あの場にいたのが誰であったとしても――そう、たとえこのベテラン気取りのいけ好かないアーサーだったとしても、止めることは不可能だっただろう。 それなのに、なぜアルフレッドがこんなにも責め立てられなくてはいけないのか。失敗は誰にでもあることだ。それなのに、ここぞとばかりにほじくって人をいじめるなんて、考え方が浅はかだ。まるで教養も気品も感じられない。アルフレッドはそうした不愉快な気持ちを、まるごと顔に表した。 けれど相手はと言えば、怒鳴るだけ怒鳴ったら気が済んだらしく、さっさと事務所に引っ込んでしまう。そうして自分は座ってお茶など飲みながら、アルフレッドの失敗に目を光らせているのだからいやらしい。 これがいつものことなのだ。 今日こそは「君も給料もらってるんだったら、ちゃんと働いたらどうだい俺のように!」と怒鳴り込んでやろうかと、腹の中でふつふつと煮え繰り返る感情を高ぶらせていると、床に散らばった椅子を、そっとテーブルの上に上げ直す人影がある。 「トーリス……!」 「すごい音しましたね」 にこりと冗談めかして笑ったその顔に、怒りがすうっと収まっていくのを感じた。彼はアルフレッドと同い年だったが、この店では一ヵ月だけ、アルフレッドの方が先輩だ。 「まさかここで連鎖してくとは思いませんよね」 「そうなんだよ! うわー、焦った焦った」 たったの一ヵ月しか違わないのに、トーリスがここまで自分を尊敬し慕ってくるには訳がある――そうアルフレッドは思っていた。 御覧の通り、彼は強く言われると逆らえない、少々気の弱い面があったから、こうした制服が売りの店で、客からセクハラを受けることもしばしばだった。 本来この店は、いかがわしい目的で創業されたわけではない。常識に捉われたくないと常々思っていた創業者が、「男性も女性も、しがらみやつまらない慣習や、頭ごなしの自己中心的な思い込み、押し付けがましい『普通』――そんな鬱陶しいものだらけの世の中からそっと解き放たれ、どんな格好でも自信満々で仕事をしているウェイターたちの姿を見て、非日常空間に興奮しながら疲れた心を癒すことができるように」との願いを込めて、志を同じくする少数のスタッフたちとオープンしたのが五年前。 今では口コミで噂が広まって、連日多くのお客さんが、日々への活力をチャージして帰っていく。 アルフレッドがこの店に入ったのも、そんな立派な店の看板となって、もっともっと多くの人の幸せに貢献できたら、と思ったからだった。 そんな崇高な店の願いやコンセプトを理解しない、下卑た輩はどの世界にもいるもので、気の弱いトーリスにセクハラをするような連中が、アルフレッドに、そして店にとってはそれだった。 アルフレッドはこの店をそこらの即物的な趣旨の店と混同されるのが何より嫌いで、そして誰よりもその感情に忠実だった。 同僚たちが心ないお客に嫌がらせを受けたら、真っ先に駆けつける――この店の理念を誰よりも理解し、そしてその実現に誰よりも貢献しているのは自分であると、だからこそアルフレッドは自負していたし、一部の後輩たちも、そう思ってくれていた。 アルフレッドはこの店が大好きだった。この店なくして、ヒーローたる自分はないと思っていた。 また、店にとっても、アルフレッドは一番に必要な存在なのだと、そう思っていた。 「ありがとうございました」 「アーサー! 今日も楽しかったわ、いつもありがと!」 それなのに、それなのに。 「アーサーの顔見るだけで、元気になれちゃう!」 「またのお越しを、心よりお待ちしております」 ――何笑ってるんだ、そんな顔、俺たちには絶対しないくせに。 「アーサー、君の細かい行き届いたサービスにはいつも感服するよ。うちの社員たちにも見習ってほしいくらいだ」 「恐れ入ります」 ――二枚舌。多重人格。 べーっと心の中で舌を出して、お客様に心から喜ばれているその男、アーサー・カークランドに向かってアルフレッドは毒づいた。 と、その瞬間。 どんっ。 ばしゃ。 裸の胸に冷たい感触がして、見ればジョッキに並々注がれていたはずのビールが、すべて自分の胸の上にこぼれてしまっている。 慌てて見れば、目の前には呆れ顔のフランシスの顔。彼はこの店の、創業当時からのメンバーで、いわば大先輩だった。 「お前ね、何よそ見してるの。仕事中でしょ」 「わ、悪かったよ……」 「俺がここ拭いとくから、お前は早く、それ、新しいの出して来な」 アルフレッドは頷いて、零してしまったジョッキビールを再び入れてもらうべく、パントリーに向かった。ちなみにこの店では、ドリンクやデザートを作って提供する場所を、「パントリー」と呼んでいる。その他に、サンドウィッチやサラダ、スープを提供する「キッチン」がある。 だが、運悪くそのパントリーには、たった今お客様を見送ったばかりのアーサーが戻ってきていて、ビールを零した旨を伝えると、案の定こっぴどく叱られた。 「何ボケッとしてんだ! バカ!」 アルフレッドが悪いので、返す言葉もないが、誰でも一度はやるようなミスだ。 ここまで人の全人格を否定するような叱り方をしなくてもいいと、アルフレッドは思った。彼は単に、アルフレッドを怒鳴りつける機会が舞い込んできて、嬉々としているだけなのだろう。零れてしまったものは零れてしまったのだから、どんなに怒ったって何の意味もない。「次から気をつけろよ」くらいに留めておくのが真に優れた、人の上に立つべき先輩というものだろう。 ――ああ、「早くお客様の元にお飲物をお持ちしなければ」だろう! アルフレッドは説教を続けるアーサーにイライラした。 ――君のせいでサービスに支障を来してるんだぞ。 やっとこさ新しいビールを注いでもらえて、怒り心頭で踵を返したアルフレッドの背中に、さらに不機嫌なアーサーの声がかけられる。 ――まだ何かあるのか。 正直、アルフレッドはうんざりしていた。 「お前、その顔で行くなよ!」 「ハァ? 顔?」 「そんな不貞腐れた顔でホールに出てみろ、今すぐクビにしてやる!」 カァッと頭に血が昇るのを感じた。 確かにアルフレッドは、感情を隠すのが苦手な方だ。不愉快だと思えばそれが顔に出る。それでも客商売に携わる者として、最低限の心配りくらいは身につけているつもりだった。それを、アルフレッドを不愉快にした当の本人から、挙句何の権限もないのに「クビにする」などと言われては、激怒して当たり前だった。 「ふざけ……っ!」 アルフレッドは手に持っていたジョッキを作業台に置いて、思わずアーサーの襟首を掴んだ。 「な……っ」 「ちょ、ストップストップストーップ!」 そこを偶然通りかかったフランシスが慌てて割り入ってきて、アルフレッドはアーサーから引き離されてしまう。 ――あと少しで殴ってやれるところだったのに! 精一杯フランシスを睨みつけると、彼は困ったような顔をして、アルフレッドとアーサーを見比べていた。 「アーサーが悪い!」 アルフレッドが大声で主張しても、アーサーは眉根を寄せただけで、ぎゅっと黙っている。 「わーかったわかった。これは俺が持ってくから、お前はホール見てろ、な?」 宥めるように背中を押され、アルフレッドはパントリーを追い出されてしまった。 もやもやした気分を抱えたまま、顔だけは取り繕いながら、笑い声のこだまする、賑やかなホールを眺める。 アーサーは、古株のフランシスの前でいい子ぶっているだけだ。アルフレッドにはそれがわかっていた。アーサーはそんなずるい奴で、いつだって二重人格然として行動を取るのだ。オーナーや古株の先輩たちやお客様にはいい顔ばかりするくせに、アルフレッドに対するあの居丈高な態度ときたら! アルフレッドはもはや、勘違いをしたセクハラ目当てのふざけた冷やかしから店を守るために、なくてはならないヒーローのはずだった。そのアルフレッドの活躍を妬み、アーサーはねちねちとした嫌がらせを仕掛けてきているのに、どうしてお偉方にはそれがわからないのか。あんなわかりやすい演技に、引っかかるなんて相当にマヌケだ。 ――ふざけやがって。 思えばアルフレッドがこの店に入ったばかりの頃から、アーサーはいけ好かない奴だった。 やたら先輩ぶって、なれなれしくて。アルフレッドが自分の思い通りに行動しないと、すぐに突っかかってくる、口うるさい奴だったのだ。 午前4時半、ラストオーダーを迎え、店内は徐々に閑散としてきた。午前5時、うっすらと朝日が街を包み込み、小鳥がさかんにさえずり鳴けば、ウェイターたちの長い長い夜が終わる。 「お疲れさまです、アルフレッドさん」 「ああ、トーリス、またね!」 きちんと普段着に身を包み、店の外へめいめいに飛び出して行けば、皆あっという間に外界に馴染んで、夢の時間はおしまいだ。 ぼうっと降り注ぐ陽光を感じながら、とぼとぼと歩く。 アルフレッドの家は、ここから歩いてすぐのところにあるマンションだ。ここで働くようになってから、狭苦しい下宿から脱出できるまでになった。 いくら気に食わない奴がいるからとて、店を辞める気は、当分、ない。待遇も給料も、社会に奉仕しているという誇りも、捨てがたいものだった。何より店には、自分というヒーローが必要だ。将来的には自分が中心になって、店を盛り立てていくつもりだった。 仕事上がりに一杯、といくか。といってもコーラだけれど。 自販機に向かってアルフレッドは、あ、と小さく声を上げた。 「財布忘れた」 事務所の金庫に入れたまま、取ってくるのを忘れてきてしまったようだ。 誰もいなくなった店内は、昨夜の賑わいが嘘のように虚しくて、アルフレッドは、椅子の上げられたフロアを、どことなく寂しく感じながら歩く。 それでもまだ鍵が開いていたから、事務所では誰かが喋っているのかもしれない。案の定、事務所からは話し声が漏れ聞こえてきていた。 「俺、もう帰るぞ」 この声はフランシスだ。特に大切な話でもないようだし、とドアノブに手をかけた瞬間、今最も聞きたくない声が耳に飛び込んできた。 「ちょ、薄情者……っ!」 「知らねぇよ、今日の発注はお前だろー?」 「待って、あと十分、あと十分で終わるから!」 「それ十分前も言ってたじゃねぇか。お兄さんは知らなーい」 「ああああ待て、ホントに待てって! またわかんないとこ出てきたらどうすんだよ!」 「平気だって、お前もう三年もこの店にいるんだぞ?」 「この前だってそう言ってお前は俺を見捨てて、オレンジジュースが来なかったんだ……!」 「それはお前が最後にちゃんと確認しないからだろうが。だいたい、こんなのアイドルにぱぱぱーっとやっちゃえば終わるだろうが。店閉めてから残ってやってるのなんて、お前くらいだぞ」 「だってアイドルはまたあのバカがぶーたれた顔でホールに出て行こうとするから、ちゃんと俺が見張ってなきゃいけなかっただろ」 ぎくり、とした。 確かに客足が途絶え、店が空き始めるアイドルの時間、アルフレッドは機嫌が悪かった。だからといって、自分の悪口をこんなところでコソコソと。しかも古株のフランシスに告げ口するかのように。 ますます胸糞悪い気分だった。 「……そんなんでサービス残業するなよ。ほっときゃいいだろ、あんな勘違い坊ちゃんはよー」 ――え? アルフレッドは思わず、弾かれたようにドアノブから手を引いた。そこに電気でも流れたかのように、指先がひりひりと痺れる気がした。 今、フランシスは、何の、誰の話をしているのだろうか。 ――『勘違い』? ……何が? アルフレッドは店のヒーローで、誰より店の理念をわかっていて、店にはなくてはならない存在で……。 「……そんな、言い方、……するな」 ずっと黙っていたアーサーが、ぽつりと言った。それをフランシスは、鼻で笑う。 「おやおや。お前が一番そう思ってるのかと思ってたけどね。正直あいつの暴走ぶりには迷惑してんだよね。そろそろ退職勧告でも、って話も俺らの間じゃあるんだけどな。……お前は賛同してくれると思ってたよ。お前はいつでも店のために一生懸命だ。俺たちのかわいいかわいい期待の新人だった」 「――ッだから言ってるんだ。そうやって、店に合わないとかなんとか、そんな理由をこじつけて追い出すのは、店の成長のためにもよくない、と、思う……。『できないのは、教えないから』。オーナーはいつも、そうおっしゃってる。……違うのか?」 「キレイごとが好きだねぇ。お前は、昔から。合理主義で実利主義で、頼りがいのある奴かと思えば、たまにそういう危うげな面も見せる……ああ。あいつが来てから、だな?」 「関係ねぇよ」 低く抑えたアーサーの声はどこか震えていた。 フランシスはそれを聞いて爆笑する。 「あいつには、お前が期待してるような価値はねぇよ? アーサー。あいつが陰でお前のことなんて言ってるか知ってるか?」 やめろ、と思った。 やめろやめろやめろ。 心の中でざわざわと、焦燥が渦を巻く。 ――やめろ。 「お前は、働かないで暇さえあれば事務所に引きこもってるくせに、偉そうなことばっかり言ってるって。――バッカじゃねぇの。あいつみたいな下っ端と違って、俺たちには事務仕事が山程あるのにさ。お前がその時間の合間を縫ってムリしてホールに出て行ってるのを見て、そんなこと言ってるんだぜ? ……お前、あんな奴、庇う価値ないよ」 長い長い沈黙が流れた。 アーサーは、何を言うのだろう。 浅はかだった、アルフレッドの発言は自己中心的で、ちっとも店全体のことなど見えていなかった。 自分がホールを駆けずり回って働いているからといって、自分が一番偉いのだと思っていた。 ――バカだ。本当にバカだ、俺は。 アーサーもそれを聞いて、心底喜んでいるに決まっている。やはりアルフレッドはアーサーに怒鳴りつけられるだけの、下っ端程度の存在にすぎなかったのだから。 「……悪かったな、引き留めて……。あとは俺一人でやるから、お前、もう帰れ……」 ようやく紡ぎ出された静かな声。 アーサーがアルフレッドの愚かな軽口を笑わなかったことに、アルフレッドは、笑われる以上の恥辱を覚えた、気がした。 「ショック? かわいがってた後輩に、陰でそんなこと言われて。……お兄さんが、慰めてあげようか?」 いたずらめいた声でフランシスが囁くのが聞こえる。 かわいがってた? 何をバカなことを言っているのだろう。皮肉だとしたら、あまりに悪質だ。まるでここで会話を盗み聞きしているアルフレッドの心臓を抉るかのような。 「帰れッ! ……う……っ」 ところがアーサーは、その皮肉を否定もしない。笑いもしない。 「……悪い。泣かす気はなかったんだがな……。アーサー、あとの発注は俺がやっといてやるから、帰っていいよ……」 「……ッ!」 ガタン、バサバサ、と荷物を取りまとめる音がして、アルフレッドは慌てて、柱の陰に身を隠した。すぐに事務所のドアが開いて、荷物を抱えたアーサーが飛び出してくる。 俯いた顔は見えなかった。 駆け去る背中が、やけに小さく見えた。 とりあえず試験的に妄想してみました。今後続きを書くかはわかりません……。 とりあえずと言いつつ、私の妄想の暴走具合がすごすぎる……。自分、アホの子ですから……orz 例の店の元ネタ記事がどこにあったか忘れたので、もはやまったく捏造でいきます。店の名前すらわからねぇ。所在地もわからねぇ。サービス形態もわからねぇ……!! そんなわけで捏造結果はこんな感じです↓↓ オーナー:女王様的な御方。 開店時間:午後9時から午前5時まで サービス:お酒と軽食 *ウェイターはウェイターなので、指名や料理提供以上の接客などはナシ! 制服がアレなこと以外は普通の喫茶店でありたい。 ただいま店名大募集中!!(笑 (2008/1/7)
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