補遺
「なんでぇ、フランスの野郎、帰っちまいやがった!」
とぼとぼと去っていく肌色に気づくのが、トルコと取っ組み合いをしていたせいで若干遅れ、ギリシャはしまった、と思った。
フランスは大丈夫だったろうか、トルコのにおいが移ったり、変な顔を見て気を害したりしていないだろうか、と色々気を遣ってやらねばならなかったのに、トルコに手こずっていた自身が本当に情けない。
「つぅかお前はいつまでんな格好でいるんでぇ」
上着を脱いで差し出すトルコの手を払って、ギリシャはそっぽを向いた。
「いらない……」
「だから、公共の場でそういう格好したらいけねぇってお前さんは習わなかったんかい!」
「だとしてもお前の服なんか、借りるか。自分のが……ある……」
トルコに説教されるのはまったく我慢がならなかった。
いまや自分は立派な一独立国なのだから、他国であるトルコにとやかく言われる筋合いなどまったくない。
ふい、とギリシャは道端に散らばった自身の服に目をやり、ごそごそとそれらを回収した。
もちろんギリシャだって、好きでやっていたわけではないのだ。もはやフランスの不穏な企みが終わった以上、自分がこんな格好をしていることに何の意味もない。
トルコのにおいを移したくなくてフランスを止めたのに、トルコ自らが出てきてしまったのでは、本当に何の意味もなかった。
不貞腐れて衣服を身につけると、腕組みしながらその様子を眺めていたトルコが、呆れたような顔をした。
「げぇっ、つぅかなんでテメェ半袖なんでぃ!」
「……ラクだから?」
「アホか」
トルコはべしっと頭をはたく。ギリシャの頭から、ぽろりと猫の耳を模した飾りが取れた。
「触るな。においが移る……」
におい。トルコのにおい。
触れられた髪をしきりに撫でるギリシャには構わず、地面に落ちた装飾具を拾い上げて、トルコはそれを物珍しそうに眺めた。
「なんでぇ、これは」
「知らない。日本のところの文化? らしい。フランスが最近ハマってるって……」
ふわふわの耳を、揉むように弄んでいるトルコ。その無骨な指先から、目が離せない。
「へぇー、日本さんの……」
やたらと感心した口調のトルコに、ギリシャはぴしゃりと言った。
「やめろ。お前は絶対につけるな」
「……なんでそういう時だけハキハキ喋るんでぇ」
言われなくても、そんな意味のわかんねぇことしねぇよ、と彼はそれを放ってギリシャに寄越した。もともとギリシャのものでもなかったのだが、仕方なくギリシャはそれを受け取る。
ああ、やっぱりトルコのにおいだ。
きゅ、と眉根を寄せた。
「……仮面、買いに行くんじゃないのか」
「おっと、そうだったい」
「あんなの……どこで売ってるんだ?」
トルコについて歩きながら何気なく問いかける。街ゆく人々はみなコートをきっちりと着こんで、むき出しのギリシャの腕には、痛いくらいの寒風が吹きつけた。
「それがよー、最近じゃ作ってくれる職人見つけるのも一苦労でなー。こうして街中まで出向かなきゃいけねぇってわけよ。したらお前さんに会うし、最悪だな今日は」
「こっちだって……」
お前なんかに、会いたくなかった。
におい。トルコのにおい。
思い出したくなかった。
どうしようもなく変な気持ちになるから。
「あ、そうか今日はクリスマスか!」
ふいに、前を歩いていたトルコが大声を上げたので、ギリシャはどきり、とそちらに目をやった。
見れば彼の目の前の商店のウインドウには「本日休業」の文字。
「あーあー、店しまってやがんの」
「もう……包帯でも巻いておけば?」
「どんなホラーだよ!」
仮面も大概怪しいと思ったが、面倒なので黙っておいた。トルコの気が変わって、この変な顔を毎回見なければならないと思うと、心の奥底が嫌というほどざわついたからだ。
この顔では、クリスマスで騒がしい雑踏の中でもちっとも浮かない。
人ごみに溶け込んで埋没して見えなくなって、匂いだけがギリシャを責める。
「……しゃあねぇなあ……」
がしがしと頭を掻いたトルコは、ひとつ溜め息をついて、再びクリスマスに浮足立った街を、行こうとしている。
背中が紛れる。人の渦の中に。
見えなくなってしまう。わからなくなってしまう。ギリシャには探せない。
ああ、においだけはこんなに強く体にまとわりついているのに。
――どこ?
ねぇ、どこ?
「おい、早く来いよ!」
ギリシャを呼ぶ声がした。
人混みの中で、振られる手。
「……う、うるさい……」
必死で人を掻き分けて、時々呼ばれてはついていく。
――この匂いに、窒息してしまいそうだ。
辿り着いた先はトルコ料理店だった。
こちらは本日も営業しているらしい。
「今日くらいおごってやらぁ」
普段はあまり景気のよくない彼が、ずいぶんとまた頼もしいことを言う。
「どういう……風の吹きまわし……」
「ま、めでてぇ日にたまたま会ったんだから、楽しもうぜ」
しぶしぶテーブルについて、出された料理に口をつける。
料理からも、なんだかトルコのにおいがした。
「テメェ……少しは遠慮しろよ」
食事を終えて店を出ると、やはり外気は冷たく、そしてトルコの懐も寒そうだった。
それなのに、まだ彼は家路につこうとはしない。だからギリシャもきちんとついていって見張っていなくては。また誰かに匂いを移してしまっては、困るから。
いつまで経っても人通りの絶えることがない、賑やかな夜の街を行く。
ふいにふらりと洋服屋に入っていったトルコは、大して迷う様子もなく、ウインドウに飾ってあったジャケットを指さし、店主との散々な値段交渉の上、買い叩いて戻ってきた。
よほど気に入ったのだろうか、こういう衝動買いを彼がすることは珍しい。
何の気なしに一連の行動をぼんやり眺めていたら、トルコは今買ったばかりのそれを、無理矢理ギリシャに羽織らせた。
「な……何……」
「やる。――プレゼント?」
その薄ら寒い気まぐれに、思わず顔が熱くなった。
「い、いらない!」
「見てるこっちが寒々しいんでぇアホ!」
確かに半袖一枚は寒かった、大いに反省している。
正直、大していい物ではないのだろうけれど、冷え切った体には温かすぎて、さっさと放り投げてしまいたいのに、なかなか踏ん切りがつかない。
「おうおう、似合うじゃねぇかい」
諦めてきちんと着直したギリシャを見て、トルコは満足したように伸びをした。
「じゃ、俺はそろそろ帰るとすっかな。帰り道も人様に迷惑かけんじゃねぇぞ」
「ま、待て……」
ずるい。
そんな一人だけスッキリした顔をして、ギリシャの気持ちなどお構いなしにさっさと帰ってしまおうとするなんて。
だからギリシャはぎゅ、とトルコの服の端を掴んで彼の歩みを止めた。
「なんでぇ」
「お、俺はもらいっぱなしなんて……」
本来プレゼントは交換するものであるのだから、このままでは、ギリシャがトルコに借りを作ったような形になってしまうではないか。
それはどうしても癪だった。
トルコはしばらく考えるように、ギリシャの腰のあたりに目をやったあと、何の前触れもなく、すっとギリシャに覆いかぶさってきた。
「…………!」
「じゃあこれで、おあいこ、な」
抵抗する間もなく、さっと離れていった彼は、にやりと笑った。
「じゃ、頑張れよ!」
何を頑張れというのだろう。
ギリシャはただただ呆然と、人の波に飲まれ見えなくなっていく背中を見ていた。
ああ、仮面がなければまったくただの人のようだ。
ギリシャにとっては、ちっとも「ただの人」などではない。そんな風に、罪もない民衆と馴染んで同化して、許されてしまうなんて許さない。
あの仮面の上には、何百年もギリシャが注いできた恨みや憎しみが焼きつけられているのだから、そんなふうに簡単に剥いで捨て去って埋もれていくなんて、許さない。
冷やされてツン、と重い空気が、異国の薫りを運ぶ。
もらったばかりの新品のジャケットに、もうトルコの匂いが染みついてしまっているのを感じた。
自分の体を抱くようにして、きゅっと眉をひそめる。
「トルコの匂いがする……」
無論、いやだなぁ、というつもりで呟いたのだが、そのジャケットを脱ぎ捨ててしまえない自分がいるのもまた、確かな事実。
ああ、この匂いを嗅いでいると、いやな思いばかりする。
胸がもやもやして、晴れない空のよう。
「……帰ろう」
まったく、散々なクリスマスだった。
フランスはトルコのところに行こうだなんて妙なことを考えるし、当のトルコには嗅ぎつけられてしまうし。
「……あれ?」
さっさと帰って寝るべく歩き出し、何気なくズボンの後ろポケットに手をあてがったギリシャは、すぐに異変に気がついた。
「……財布……ない」
なんか現代トルコさん、経済マンガ以来、自分の中で貧乏イメージしかないんですけど……(笑)。
(2007/12/27)
(C)2007 神川ゆた(Yuta Kamikawa)
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