飛行機の中で、泣き顔を隠すように毛布にくるまって、イギリスはずっと考えていた。
 フランスと初めて出逢った日のこと、殺し合った時のこと、優しく抱きしめられた時のこと、命を救われた時のこと、他愛もない言い合いが楽しかった日々のこと、去年の大晦日、想いが通じ合った時のこと……。
 幸せな時間ほど、長くは続かないものだ。
 それは千年を優に超える時間を生きてきたイギリスには、痛いほどわかっていたことだった。けれどいつも幸せの渦中には、今度だけは例外ならいいと、心の底から祈っているものなのだ。
 ――短い間だったけど、いい夢を見させてもらった。ありがとう。
 フランスの満足したような、静かな声が頭の中をぐるぐる回っている。
 なんだよ、と思ったら、涙が止まらなかった。
 なんだよ、勝手にすっきりした顔して、捨てられたイギリスはどうすればいいのか。
 フランスはイギリスに愛されるはずのない立場にいたのだ、真に愛されるべきは、イギリスがその存在を忘れ去ってしまった子供だ、なんてイギリスには理解不能なことばかり言って、――勝手すぎる。
 何が奇跡だ、と言ってやりたかった。イギリスの大切な友人たちである妖精を、そんな口実に使われたのは、ますます悔しく切なかった。
 シートの上で体育座りをして、膝に顔を埋めている自分が、ファーストクラスの他の乗客にどう見られているかなんて知らない。ぐすぐすと鼻を啜り上げる音だって、とっくに聞こえているのだろう。
 フランスはイギリスをムリヤリ空港まで引っ張っていって、勝手にチケットを買って、勝手にイギリスを追いやった。
 欲しいのはこんなリクライニングシートでも大型ディスプレイでも脚を伸ばせるだけの広いスペースでもなかったのに。
 イギリスには逆らう権利などなかった。駄々を捏ねるのは簡単だったが、フランスに嫌われるのが怖かった。
 ――ああ、なんて愚かな。
 今更嫌われようが、大差などなかったというのに。もう二度と、イギリスはフランスに愛しているとキスされ抱きしめられることはないのだろう。それだけは、はっきりとわかっていた。
 どうせならヒースローで、フランスが困るくらい泣き喚いてやればよかった。思い切り恥をかかせて、想いの丈すべてぶつければよかった。どうしてこの期に及んで自分は、想いを押し殺して唇を噛み締めてしまったのだろう。
 こんなに苦しい思いをするなら、いっそあの大晦日の夜、勇気など出さなければよかった。
 フランスと過ごした一年が、心の中を去来して、目まぐるしくイギリスの心を責め立てた。
 ああ、違う。確かにこの一年は、イギリスにとってかけがえのないものだった。
 たとえフランスやアメリカが、イギリスには意味のわからない虚言を並べ立てようとも、その事実だけは、絶対に覆ることなどあるものか。
 イギリスが大人しくここに座っているのも、フランスはいつもイギリスを、フランスの都合だけで振り回したりはしないと、まだ自分の中に彼への確固たる信頼があるからなのだと、本当は知っていた。フランスは、いつもイギリスの幸せを願っていてくれている。イギリスはそれを知っていた。だからこそ、イギリスはフランスが好きで好きでたまらなくて、そうしてなぜか、申し訳ないような気持ちをずっと抱いていた。


 フランスから連絡を受けていたのか、空港には、ぽつりと元気のないアメリカが立っていた。
 イギリスが遠巻きに眺めていると、やがて「本当に来たのか」とでも言いたげな顔で、そろそろと近づいてきた。
 長旅で疲れ果てて、もはや準備していた暴言を吐く気にもなれない。
「……俺、まずは君に謝らなくちゃいけない……」
 今更だ、と思った。何を言われても、どんな言い訳をされても、絶対に許すものかと思った。ましてそれが『妖精』だなんだというものだったら、今すぐロンドンに引き返してやる。
「俺はいつだって君と対等になりたかったけど、全然足元にも及ばないくらい子供なんだってこと、思い知ったよ。そりゃ、フランスに敵わないはずだよね……。俺は俺のことしか考えてなくて、いつも君の言うことなんて後回しにしてた……」
 フランスという言葉を出されて、心臓を抉られるような思いがした。
 ああ、早く家に帰ってウイスキーを煽って、記憶が全部飛んでしまうくらいでろんでろんに酔っ払って、そうして眠ってしまいたい。明日のことなど何も考えずに。
 早くこんな忌まわしい国からは去ろう。フランスの言うとおりに、「イギリスの中から消えてしまった子供」を確かめたらすぐに。
 そうすれば少しは、この痛みも癒えるだろうか?
「俺はお前に会いに来たんじゃなくて……」
「わかってるよ。フランスに言われて来たんだろう? 俺の顔を見るのも嫌だろうに、本当にごめん……」
 しおらしいアメリカは、気味が悪かった。
「こんなこと今更言うの、迷惑かもしれないけど……、でも今までずっと、逃げてばっかりいて、君の優しさに胡坐を掻いてた。俺は本当にバカで子供だったと今なら思う……俺は俺の気持ちを、ちゃんと伝えようとしなかった……。――好きだよ、イギリス。何度捨てられても、何度振られても、きっと俺は一生君が好きなんだと思う……」
 イギリスとアメリカの間には、約2メートルの距離があった。その距離を一歩も縮めることなく、ただイギリスを真っ直ぐに見つめて、辛そうに訴えるアメリカは、イギリスを少なからず動揺させた。
 こんなふうに、心の底から切にイギリスを想っていると、告げられたことなど一度もなかった。普段は幼稚極まりなく軽佻浮薄で、どちらかといえば目障りな存在、程度にしか感じていなかったアメリカが、こんな想いを自分に抱いていたなんて。軽蔑と拒絶と、困惑がないまぜになって、イギリスはアメリカの視線を受け止めきれず俯いた。
 どうして。どうしてこんな。
 最愛の人には突き放されて。大嫌いな奴には、思ってもみなかった想いをぶつけられて。
 ああ、イギリスが一体何をしたというのだろう。
「俺は……お前みたいなやつは、好きに、なれない」
 こんな騒がしい空港のど真ん中でまさかとは思うが、アメリカが逆上する可能性も考えて、きっぱりと、しかし一語一語気を遣いながら、突きつけた。
「……俺は、フランスが……」
 そのフランスにももう、捨てられてしまったも同然だけれど。
「……うん、知ってる」
 意外にもアメリカは静かに頷いて、
「でも俺は、ずっと君が好きだから」
 まるで映画のような、クサイ台詞だった。
 アメリカの口から出るにはあまりに重みがなく、相応しくないと思うのに、どうしてかその言葉はイギリスの胸をひどく打って、涸れかけていた涙がこみ上げてくる。
「君が赦してくれるまで、いつまでだって待つ。そうしていつか、前みたいに、君と馬鹿みたいな言い合いができたら、それだけでいいんだ……」
 嬉しいわけではない。ただアメリカの言葉がひとつひとつ、じわりと胸に沁み渡っていく。――いつだったか、こんな思いを前にもしたような、そんな気がした。
「もう俺は俺のことだけ考えて君を振り回したりしないよ。君を見下すのもやめる」
 やめてくれ、と思った。
 そんな口調で語るのはやめてくれ。
 ぽろぽろと何かが零れていく。フランスと過ごしていた日々、心に張りついて、溢れ来るものを必死に堰き止めていた、何かが。
「……俺、君の言ってた妖精ってやつを、信じてみようかと思う」
 また『妖精』。
 イギリスは眉をひそめた。
 フランスもアメリカも、どうして何もかも、妖精のせいにしようとするのだろう。
 アメリカがこの先語る『妖精』の逸話で、フランスがイギリスに隠していたことが何だったのか、わかるだろうか。
「……君は、俺のことを、忘れちゃったの?」
 恐る恐る、といった体でアメリカが訊いた。
 そのあまりにバカげた質問に、イギリスは苛々した。
「何言ってんだ、アメリカだろ。覚えてるよ。バカじゃないのか」
 語尾には本気で軽蔑を込めたのに、アメリカは気にも留めず話を続ける。
 らしくない。ガキで単純バカなアメリカらしくない。
「じゃあ、君が俺を育ててくれたことも、覚えてる?」
 本当に、何をバカなことを言っているのだろう、と思った。
「お前を、育てた? 俺が?」
 このバカげた質問の連続に、いったい何の意味があるというのだろうか。
「俺は君の『元植民地』なんだろう? どんなふうに俺が植民地になったのか、覚えてるかい?」
 イギリスは目を瞬いた。
 ――何かがおかしい。そう思ったからだった。
 頭にロックでもかかったかのように、ある一定の段階に到ると、考えることが阻まれる、そんな気がする。
「……お前が、どんなふうに植民地になったか……?」
 アメリカは確かにイギリスの植民地だった。それだけは間違いないのに、イギリスがどのようにアメリカを手に入れたのか、どのように失ったのか、それだけがまったく思い出せない。
 どんなに小さな植民地であっても、それはかつて大英帝国の要であって、忘れてしまうことなど絶対にありえない。まして相手はアメリカという広大な領土なのだ。
「あれ? ……あれ?」
 どうして今まで気にも留めなかったのだろう。
 イギリスには、アメリカを植民地とした経緯はおろか、植民地としていた時代のことすら、まったく記憶に残っていなかった。
 おかしい。
 ――こんなのは、絶対におかしい。
「……わからない?」
 呆然とするイギリスに、アメリカはついに、一歩を踏み出した。
 イギリスはびくり、とその分だけ後ずさる。
「なんだよ、なんなんだよこれ! お前もフランスも! みんなして訳のわからないことばっかり! 何が起きてるって言うんだよ!」
「わからなくて、いいよ」
 アメリカがこんなふうに穏やかに微笑めることを、初めて知った。
「これから知ってくれれば、それでいいよ」
 だからといって、アメリカが自分にしたことを許せるはずもないし、日頃感じていた、アメリカを幼稚だと侮る気持ちも薄れるはずがないのに。
「イギリス……俺の話を、聞いてくれるかい?」
 どうして耳を塞いでしまえないのだろう。
 どうしてこんなに胸騒ぎがするのだろう。アメリカが語るであろう言葉が、待ち遠しくて仕方がないのだろう。
 どうして。
 どうして。
「……俺と君は、広い広い未開拓の新大陸の、片隅にできたばかりの小さな小さな町で、初めて出会ったんだ。俺はまだこんなに小さかった」
 こんなに、と手で指し示した身長は、本当に膝の丈あるかないかという位。
 目の前の、イギリスよりも図体のでかいアメリカからはまったく想像のできない話だ。
 イギリスの頭に、フランスに見せられたスケッチが蘇る。あそこにイギリスとともに描かれていた子供は、ひょっとして――。
「君は俺の頭を撫でて、服や家畜や武器をたくさんくれた。『お前は強い子だ、よくこんなところで生まれてきた』って言って、それから帰り際には『また来る』って笑ったんだ。寂しくて怖くてしょうがなかった俺は、それだけで涙が出るほど嬉しかった」
「あ……」
 アメリカがひとつひとつ語るたび、頭の中を流れる映像がある。
 目の覚めるような草木の緑。乾いた地の茶色。
 ガラガラと舗装されていない道を行く馬車の音。
 小鳥が歌い、そこには新たな家を建てる人々の歌声が満ちていた。
 そこで笑っている小さな子供。青い瞳に金の髪。小さな手でイギリスのズボンを掴み、「いぎりちゅ」と見上げた――。
 思い出せたのは、アメリカが語ったその部分だけであった。
 その後その子供がどのように育ち、どうやって目の前のアメリカにまで成長したのかは、まったく思い出せない。
 頭を抱え、蘇る記憶に愕然としていたイギリスをぎゅっと抱きしめて、アメリカは力強く言った。いつの間にこんなに近くまで来ていたのか。

 いつの間に、こんなに大きくなったのか。

「俺が今までのことを全部教えてあげる。そうしてひとつひとつ、たとえ何年かかっても、思い出してくれればいい。何度君が忘れても、俺は絶対に忘れないから」
 強く強く抱かれた腕の中、アメリカの匂い。太陽の温もり、干し草の香り。この場に、あるはずのないもの。記憶の中の――。
「君の中からあの日々が消えちゃうなんて、俺は、絶対に許さないんだぞ……」
 イギリスは抵抗することも忘れて、ただ呆然としていた。


















(2007/12/25)



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