あれから、一年が経とうとしている。
 色々なことがあった。つい先日には、アメリカがイギリスを抱いた。本来ならば何の問題もなかったはずの行為。むしろ、何ヵ月も耐えていたアメリカは立派だとすら思う。
 赤の他人同然のアメリカに犯されたイギリスの心の傷はずいぶん癒えてきているようだが、最愛の恋人であったイギリスに拒絶されたアメリカの傷は生涯癒えることなどないだろう。彼は、イギリスが己を捨てた理由すら、定かには知らぬままだ。
 そしてその罪は、フランスが生涯背負って生きていく。所詮紛い物の愛しか育めなくても、せめてイギリスを精一杯幸せにすることが、フランスにできるすべてだった。――イギリスがもう二度と、アメリカのことを思い出さないというのなら。
 真に愛し合う二人なら、何度お互いを忘れても再び引かれ合うだろう、などというお気楽な考えは抱いていない。イギリスには、アメリカが現れる遥か前から築いたフランスとの関係がある。どうあがいても、もはや独り立ちして世界の一柱を担い、しかも客観的に見てあまり褒められた性格ではないアメリカが、それを超えることは不可能だろう。
 ああ、アメリカのイギリスへの愛情はいつだって勝手だった。傍から見守る日本やフランスはいつも眉をひそめたものだった。
 今思えば、そもそもの始まりからイギリスに愛されていたアメリカの愛は、「振り向かせるための愛」ではなく「繋ぎ留めるための愛」であったのだ。アメリカがイギリスを繋ぎ留めるための努力を怠っているという批判はある意味で的外れであり、ある意味で的を射ていた。あれはあの術を、おそらくまったく無意識に身につけていたのだ。
 だからこそアメリカは、イギリスに愛し続けられることはできても、無からイギリスの愛を勝ち取ることはできないのだ。あまりにも幸せなアメリカは、そういうふうに育ってきた。


「何もノエル間際に大掃除しなくてもいいと、お兄さんは思うんだが」
「クリスマスだからこそ、綺麗にして迎えたいだろ? いいから文句言ってねぇで手伝えよ。どうせ暇なんだろ?」
 ああ、今年はアメリカの奴がパーティを開かないらしいからな、と返しかけて、慌てて口をつぐむ。たぶん声に出してもイギリスは気にしなかったろうが、そこまでフランスは自分のしでかしたことについて無神経ではいられなかった。すべては自己満足に過ぎなかったが、今のイギリスと、アメリカの悪口をネタにするような関係には絶対になりたくなかった。
 奇跡という名の悲劇が訪れる前の二人を、誰よりもよく知るフランスだからこそ。
「そう言えば一年くらい開けてない倉庫があってな」
「珍しいな、お前なら一月に一度は掃除しそうなのに」
「必要なモンが入ってるならするけど……どうも何が入ってるのか思い出せなくて。忙しかったしつい忘れてたんだよ。まぁどうせ大したもんじゃないんだろうけど」
 言いながらイギリスは、件の部屋のノブに古めかしい装飾の鍵を差し込み、がちゃりと回した。
「うーわ、埃っぽいなー。窓開けようぜ窓」
 イギリスは、年代物の銃やらブーツやら時計やらを掻き分けて、手際よく窓を開けに行った。暗かった室内には冬の陽光が差し込んで、埃がきらきらと、雪のように舞うのが見えた。
 フランスは声も出ず立ち尽くしていた。この倉庫がなんの倉庫なのか、一目見てわかってしまったからだ。
 子供用の木製の椅子。手製のドールハウス。小さな洋箪笥は、ちょうど「虫干しのため一時的に」という意図でもって開けられ、そのまま放置されてしまったかのように、不自然に少し開いており、中には子供用の毛織物がかけてあるのが見えた。
 ああ、これはイギリスの、思い出を閉じ込めた部屋なのだ。かわいそうなイギリスは、愛した子供にその手を噛まれてなお、彼にまつわる品々を処分してしまうことができなかったのだろう。
 この部屋はイギリスの、「アメリカ」が詰まった倉庫だ。
「なんだこの古い子供服! 俺のかぁ?」
 イギリスはフランスの動揺には気づかず、てきぱきと部屋の中を漁って回る。
 やがて小さな箪笥を開け、かけてあった子供用の一揃いを取り出して眺めた。
「こんなん取っといてもしょうがねぇだろ、捨てるか」
 何よりも大切にしていたに違いないその思い出を、イギリスがゴミ処分のために用意したゴミ袋の中に、ためらいもなく放り込もうとしているのを見て、フランスはもはや、黙っていることができなかった。
「やめろ!」
 その場の空気にそぐわない切羽詰まった声を自覚する余裕もなく、フランスは叫んでいた。
 ――こんなイギリスを、もうこれ以上見ていたくなかった。
 誰よりも温かい目でその子供を慈しんでいたイギリス。
 すべてを忘れて、ただ孤独に苛まれるイギリス。
「……え? あ、これ、お前のか?」
「違う……」
「じゃあいいじゃねぇか。俺も何でこんなん取っておいたのかよくわからねぇし」
「……わからないのは、俺が忘れさせたからだ……」
 フランスはつかつかと、部屋の隅の机に歩み寄ると、滑りの悪い引き出しを開けた。案の定、そこにはスケッチと思しき紙がたくさん詰まったファイル。
 その昔、カメラなんてものが一般化するずっと前、イギリスが可愛い可愛い子供をよく、絵師に描き留めさせていたことを、フランスはしっかりと覚えていた。
 先頭の絵は、幼く無邪気な、可愛い盛りのアメリカと、それを優しく見守るイギリスを、繊細なタッチで描いたもの。イギリスが最も気に入っていた。
「その服は、この子のだろう?」
 ファイルを手渡すと、イギリスはしげしげとその絵に見入り、怪訝そうに首を傾げた。
「お前はその子を弟のように、実の子供のように、愛情を注いで育てた。その子は信頼される心地よさを、尽くす喜びを、家族の温もりを、庇護の責任をお前に教えたたった一人の、お前の誰よりも誰よりも大切な子供だった」
 突然何を言い出したんだという顔で、イギリスがぽかんと口を開けたので、なおもフランスは言葉を次いだ。
「前に訊いただろ? ノエルに妖精は奇跡を起こすかって。……お前は迷信だって笑ったけど、でも俺は、去年のノエル、本当に願いを叶えてもらったんだ……」
「待てよ、お前、何言ってるのかわからな――」
「俺は何百年も前から、お前を愛してたよ、イギリス。……でも、でもその子供がいる限り、お前が決して俺に愛を向けることはないとも知ってた。――魔が差したんだ。俺は妖精に、お前がその子供を忘れるようにって頼んだ。そうすれば、お前を俺のものにできると思った」
 そう、魔が差したのだ。
 そんな陳腐な言葉で言い訳できるような、罪ではないけれども。
 かわいそうなイギリスは、何も知らずにただ笑う。
「な……バカだな、クリスマスにするのはクイズだぞ? お前、エイプリルフールと間違えてんじゃねぇの? どういうドッキリだよ。……俺はこんな子供知らねぇし、妖精にそんな大それた力があるなんてのも絵空事だ」
「でも、その証拠にお前は、こんな部屋があることを知らなかっただろ? その子供にまつわることを、お前がごっそり忘れたからだ。それ以外にお前、この部屋の存在とお前の記憶の不整合が、説明できるか?」
 確かな事実を突きつければ、イギリスは笑みを引っ込めてたじろいだ。 
「……じゃ、じゃあ、この子供は今どこにいるって言うんだよ! 俺が育ててたんだろ? 俺が忘れちまったら、そいつはどうするんだよ!」
 本当に。
 育ての親に忘れ去られた子供は、なんと悲しい日々を送ったことか。
「その子供は、……今頃きっと、ひとりぼっちで膝を抱えて泣いてる。広い広い大陸で、お前が来てくれるのをずっと待ってる。――行ってやってくれないか?」
 イギリスをアメリカのところへやるのは、今の二人には酷かもしれない。
 それに、これはフランスにとって、単なる逃げ口上にしか過ぎないのもまたどうしようもなく客観的な事実だ。
 こういう責任放棄は卑怯だと思う。
 さんざん事態を掻き回しておいて、「やっぱり自分の手には負えなかったから身を引きます」、だなんて。
 けれどももう、これしかないのだと思う。
 イギリスの中のきれいなきれいな思い出が、完全に捨てられ燃やされつくしてしまう前に、誤った道を正さねばならない。
「こんなことを、俺が頼むのは筋違いだってわかってる。でも、行ってやってほしいんだ……」
 過ちを犯した。ならば正さねばならない。
 フランスの誇りや正義、歴史を懸けてでも。
「フランス……?」
 イギリスはひどく困惑しているようだった。あまりにバカげたことを「恋人」フランスが妙に真剣に訴えていることと、現に見覚えのない品々が眠る一室が、自宅にあったということ。大がかりなドッキリだと思うには、不可思議すぎる点がいくつもある。
「意味わかんねぇよ……、俺、ちゃんとお前が好きだぞ? ……そんなバカなこと言って、俺を捨てるつもりかよ……」
 ああ、イギリスには本当にかわいそうなことをした。すべてすべて、フランスのエゴのため。
 今のイギリスには、アメリカという記憶を失ったイギリスには、心ごと寄りかかる相手はもはや、フランスしかいないというのに。
「……お前、あいつと同じこと言うんだね」
「あいつ?」
「その子供にも、同じ説明をしてやった。『イギリスがお前を忘れたのは、妖精に俺が願ったからだ』って。そしたらそいつ、同じことを言ったんだ、笑えるよなぁ……。『そんなバカなこと言って、イギリスは俺を捨てたんだろう』って」
 イギリスの中の思い出は消えてしまっても、イギリスからアメリカへと自然に移った些細な癖や習慣、性格こそが、二人がともに過ごした事実は決して消せないものなのだと訴えているようで。
 イギリスはなおも到底納得していない表情で、スケッチとフランスの顔を交互に見比べていた。
「……行け。お願いだから」
 そんなイギリスの肩を、フランスは静かに叩いた。
「どこに」
「……アメリカに。アメリカに会えば、きっとわかる」
 フランスは、ただただイギリスに幸せになってもらいたかった。
 アメリカ、と聞いて顔を歪めるイギリスを、見たかったわけじゃない。そうだ。それだけは絶対に違う。
「アメリカに……?」
「お願いだ。俺はもう、お前とあいつが苦しんでるのは嫌なんだよ……苦しませたのは俺なのに、本当に身勝手だってわかってる」
 肩に置いた手を、そっとイギリスが掴む。
 うつむいて、震える睫毛からはぽつりと一粒の涙。
「なんで、お前がそんなこと言うんだよ……」
 愛する者に裏切られたような気分が、していることだろう。
 けれど本当はそうではない。
 今ここで全てを隠してイギリスを抱きしめるのは簡単だったけれども、それでは何も解決しないのだ。
 ああ、前々からわかっていたことではないか。どうしてこんなになるまで気がつかなかったのか。目を、瞑っていたのか。――フランスの愛は、イギリスをダメにする。
「アメリカのところに行けなんて、そんなの酷いじゃねぇか……あいつが俺に何したか、知ってるくせに……」
 やっぱりお前は俺のことなんか好きじゃないんだろ、と言われる前に、フランスはイギリスに口づけた。
 これで終わりにしよう。
 これが、最後の。
「好きだよ。好きだから言うんだ、イギリス」
 ああ、奇跡を起こしてくれるというのなら、今この時にこそ、奇跡が必要だ。
「アメリカが何を考えていたのか、俺が何を考えているのか、お前は知らなきゃいけない。このまま忘れていて、いいはずがないんだ……」


















(2007/12/24)



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