がしゃん、と音がして、飾り皿は床の上にちらばった。
 投げられた椅子の脚は折れ、壁紙は破れてところどころめくれてしまった。
 彼が逃げるように消えた後、家の中は見る影もなく変わり果てた。
「くそっ!」
 もう一脚、力任せに壁に叩きつける。がつんと跳ねて、床に落ちた椅子は歪んでいた。
「くそ、くそ、くそ……!」
 カーペットの毛をむしりながら、頭をこすりつけるようにして唸った。
 異常な熱に浮かされていた頭が、急速に冷えたのがわかる。
 アメリカはいったい、何をしたのだろう。
 一人でみっともなく足掻いて、その実イギリスには何一つ伝わらなかった。
 もう何に八つ当りしていいのかわからない。当たったところで、ちっとも気は晴れないのに、そうしないではいられなかった。
 嫌がるイギリスを無理矢理組み敷いたという事実よりも、イギリスが本気でアメリカを拒み、泣いてフランスを呼んだこと、その事実にただ打ちのめされている。体だけは、まだ二人上辺だけでも愛し合っていた頃のようにしっかり反応するくせに、イギリスの心は完全にアメリカを否定したのだ。
 もしもイギリスが、アメリカの狂気を諦めのうちに受け入れるような、擦れた男であったなら、アメリカの心は幾分か慰まったのかもしれない。
 しかしイギリスは、この期に及んでフランスへの貞節をかたく守り通そうとしたのだ。それがアメリカには悲しかった。フランスと結ばれる前には、アメリカに惜し気もなく体を開いたではないか。
 それが今ではもう、フランスだけのもの。
「何が違うって言うんだよ……!」
 力任せに床を叩いた。
「どうせやることは一緒じゃないか……!」
 それほどまでに、フランスはイギリスの心を占めているというのか。


 当然ながら、アメリカは以後イギリスと会うことを極端に避けた。アメリカがそうせずとも、イギリスの方でもそうしているようだったから、二人は何ヶ月かまったく会わないでいることができた。
 会ったところで、どのような顔をしていいのかわからない。頭を下げて地に手をついて、謝ればいいのだろうか。
 そんなことをしても、二人の間は何も変わらないというのに。
 しかしいくらアメリカ、イギリスといえど、世界会議を欠席するわけにはいかない。なるべくイギリスと顔を合わせたくなくて遅れていけば、イギリスはやはり目を合わせてはくれなかった。
 見える場所にくっきりとつけてやった鬱血の跡も、さすがにもう残ってはいない。もう二度と彼に触れることはないだろうと思うと、ただただ悲しくて、会議など頭に入ってこなかった。
 フランスはといえば、何を知っているというのか、やはり同様に目線を外して憂い顔を見せる。アメリカに対して怒っているというよりは、むしろ同情すら感じていると思しき態度に、腸が煮え繰り返るような思いだった。
 イギリスの隣に座ったフランス。ああ、アメリカはもう二度と、ああしてイギリスと笑い合うことはできないのに。
 構わないさ、と心のどこかで声がした。
 どうせ愛されることがないのなら、いっそ嫌ってくれた方がいい――。再び、馬鹿な期待を抱くことのないように。
 そんなふうに自棄を起こして気持ちを一時慰めることは簡単だったけれど、結局悲しく、虚しいだけだということを、アメリカはもはや知ってしまっていた。


「どうか幸せに、と、言えたらいいんだろうな、とは思うんだけど」
 休憩がてらに逃げ込んだ屋上で、久々に日本と話した。
 日本は始めこそ、バカ丁寧な口調でアメリカとの心理的距離を保とうとしていたが、アメリカの語り始めた自身の蛮行とその懺悔に聞き入るうち、いつの間にか、アメリカを本気で心配する、よき隣国の顔になっていた。
 もう風はずいぶんと冷たく、肌を刺すようだというのに、お互い白い息を吐きながら、いつまでもいつまでも、中に入ろうとはしなかった。
「でもだめだった。俺は、このまま二人とも死ねばいいのにと思ってる」
 日が傾いて、冬空を赤く染め上げる。
「本当にそうなったら、あなたに救いは永遠に訪れないと、わかってはいても、ですか?」
「そうしたら時がすべてを風化してくれるだろう?」
 嘘だ。
 本当は、彼がこの世からいなくなってしまった状況なんて、寸分も想像できない。
「……イギリスを見るたびに苦しいんだ。どうして嫌いになれないんだろう……どうしてこんなに好きなんだろう……!」
「それが『アメリカさん』なんじゃないですか?」
 それこそが。それでこそ。
「……俺が俺である限り、あの人からは逃れられないってことかい?」
 日本は寂しげに苦笑した。
 逃れられない、とはまたずいぶん否定的な単語を使う、と彼は夕日に目をやった。
「人には、国には、その人を形作ってきた過程が、時間があるんです。あなたにとっては、イギリスさんとともに過ごした日々が、イギリスさんに育てられた日々が、イギリスさんに好意を抱いた日々が、イギリスさんと、愛し合った日々が。誰にもそれを、リセットすることなどできない……」
 ああ、けれどイギリスには易々とリセットできたのではないか。
「……正直、イギリスを押し倒した時、俺は意外と冷静だったんだよ。抱けば、なし崩し的にそういう雰囲気を作ってしまえば、もう一度彼が笑って『愛してる』って言ってくれるんじゃないかと思ったんだ。あの人は結局優しいし、……流されやすいっていうのかな、仕事が絡んでないと特にね、場を読んで雰囲気に合わせるのが好きだから。その場のノリでも何でもいいから、もう一度笑って『愛してる』って言ってほしかった。たとえその『愛』が紛い物だとしても、俺には、そのかりそめの時間だけでよかった……」
 愛してなどいなくても、あの場限りの戯れとして、イギリスはアメリカを許してくれるような気がしていたのだ。
 かつて、アメリカに抱かれながらその実フランスを思っていたイギリスなら、また空虚な夢で、心にぽっかりあいた穴を埋めてくれると思った。
 なんて浅はかで愚かしい、幼稚な期待。
「イギリスさんがそんな人だったら、私は憧れなどしませんでした」
 日本は遠い昔を思い出すように言った。かつて海に開けたばかりの日本の、最大の貿易相手であったイギリス。
「だいたい、イギリスさんは誰かを想うことに対して、そんなに器用じゃありませんよ。……そう思いませんか?」
「じゃあどうして、俺とあんなごっこ遊びしたのさ。フランスが好きだったくせに……」
「だから私は、あの頃のあなたを想うイギリスさんの気持ちは、確かに真実だったと、そう思うのです」
 アメリカは手摺りに顎を乗せて、沈みゆく夕日に手を伸ばした。
「そうかな」
「そうですよ」
 私が言うのだから、間違いありません、と日本はやけに老獪な口調。
 この根拠のない自信に、アメリカは苦笑するしかなかった。
 ともに肩を並べて、沈みゆく夕日を眺める。二人の背後には、生まれたての神秘的な夕闇が広がっている。
「妖精……」
 なんとなく口に出したその単語を、日本はすかさず拾った。
「……そう。本当に妖精さんが、あなたへの気持ちをすっぱり消してしまったのかもしれませんね」
「それって、俺は誰を恨めばいいのかなぁ……」
 ああ、この手にかつて抱いたイギリス。恥ずかしそうに笑って、何度もキスを交わした――。
 今ではもううっすらとしか思い出せない。拘束を解こうとアメリカをがむしゃらに押して引っ掻いた、泣いてフランスを呼んだ、あのイギリスしか。
「クリスマスの夜、か……」
 日がもうすっかり落ちる。中に入りましょう、と日本が呼んだ。
「今年は、俺の願いが叶うかなぁ……」
「叶いますよ。いい子にしていればね」
 ただのジョークのはずなのに、日本の声はやたらと真剣味を帯びていた。
「いい子に、か……」
 幼い頃に聞いた、愛しい人の声が頭の中をリフレインしている。曰く「いい子にしてないとプレゼントはやらないぞ」と。
「……『うん、いい子にしてるよ、イギリス』」
 毎年毎年そう答えるうちに、いつしかそのセリフは形式的なものとなって、からりと軽い音を立てて地に落ちた。
 ああ、アメリカは、あんな単純な言いつけさえ守れずにいる。
「……いい子に、してるよ」
 もはや戻らぬ過去の幻影をレンズの奥の瞳に映したアメリカを、日本はじっと見つめていた。
「俺、いつからこんなに傲慢になったんだろう」
 昔はただただイギリスに反発して。やがて独立した後に、自分の中のほのかな恋心に気がついた。否定すればしようとするほど日に日にそれは無視できない大きさに膨れ上がり、もはやイギリス以外にそうした感情を抱けない自分がいることを知った。連れ添うのなら、イギリス以外にありえない。イギリスが手に入らないのなら、自分は一生独りで過ごすのだろうと。ばかみたいにイギリスを想いながら。
 イギリスへの想いを、他人にも自分にもひた隠しにして、本心とは裏腹な言動ばかりを取り続けた。
 そうしてアメリカは、イギリスの色んな顔を知った。イギリスがアメリカの些細な言動にひどく動かされることも知って、想いはさらに募った。しかしそんな不毛なことを続けているうちに、彼の望む行動を取ってあげられない自身が形成されていたことに、今まで気づかなかった。
 イギリスが望む愛を、与えられないアメリカ。イギリスを幸せにできないアメリカ。
 ああ、アメリカはこんなにもイギリスを好いていながら、イギリスのことを思いやり、イギリスのためにあからさまな優しさを向けたことは一度もないのだということに、今更ながら気がついた。
 念願かなって恋人となってからも、いつも自分のことが最優先。自分勝手にイギリスを振り回して、怒る顔が見たいがためだけにからかって、愛されている自身を確認したいがためだけにわざと冷たくして。
 そのたびにフランスが苦々しい顔をしていたことを、アメリカは知っていたのではなかったか。
 けれどもアメリカが態度を改めることはなかった。そんなことをしなくてもイギリスはアメリカを見限ったりしないと、フランスに流れたりしないと、浅はかな勘違いをしていた。――驕っていたのだ、どうしようもなく。
 見ろ。フランスといたイギリスは幸せそうだったではないか。
 フランスが「お前にできなかったことを俺がしてやる」と豪語した、あれはまったくの真実だったのだ。アメリカには無理だったこと。あの愛しいイギリスに、真にふさわしいのはフランスの方だった。
 ――ああ、思えば自分は今まで、イギリスを失った痛みや恨みや悲しみや、そんなものばかりに捕らわれて、少しも自分が悪いとは思わなかった。
 イギリスがフランスの隣でどんなに幸せそうに笑っていたか、見ようともしなかった。
「ふられて、当たり前だよなぁ……」
 挙句の果てに、自身の勝手な激情で、一番大切にしたかった人を傷つけた。もう取り返しなどつくはずがない。
 かつて日本が自分を「許せない」と言っていた意味が、今ならわかる気がする。
「一番星ですね」
 そっと日本が指差した金星に願うように、アメリカは自分自身に言い聞かせた。
「いい子にするから、いい子にするから、どうか、願いを叶えてください」
 いい子にするから。もう一度、誠意をもってイギリスを愛するから、やり直すチャンスを、与えてください。
 もうイギリスをあしらうことで愛情を確認したりしない。誠心誠意イギリスの話を聞こう、イギリスのために生きよう、イギリスに尽くそう。そうして、贖えるはずのない自身の罪を、いつかあの人が赦してくれる日が来ればいい。それが何年先の、何百年先のクリスマスでも。
「……イギリスが『妖精はいる』と言うのなら、俺はまずはそれを、信じてあげることから始めようと思う。……こんなことで、俺がイギリスにしたことは、赦されるはずもないけど」
 イギリスに精一杯優しくしよう。イギリスの話を真剣に聞こう。
 日本は何も言わずに微笑んで、こくりと頷いた。


















(2007/12/24)



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