雨が降っていた。 どことなく憂欝な気分で窓の外を見ていたフランスは、庭先に幽霊のように立つ人影に気がついた。 その人物は深く俯いていたし、雨で視界が悪いこともあって、すぐには誰だかわからなかったが、ずぶ濡れになったその金髪に、まさか、と思う。慌てて飛び出せば、やはりという確信に変わった。 「……イギリス?」 声をかければ、ゆっくりと顔が持ち上がる。その目は真っ赤だった。 「どうしたんだよお前……そんなに濡れて! ほら、早く入れ!」 腕を引けば、そのまま胸に縋りついてきた。 「っく……フラ、ンス……!」 「わかったから、大丈夫だから、だから中入れ、な?」 背中を押してイギリスを中に入れる。イギリスの髪や服からはぽたぽたと雫が落ちて、カーペットに染みを作った。 きっちり止めたコートのボタンを外して脱がせれば、中のスーツもシャツも、皆ボタンが取れてしまっている。 おかしいと思いながらも、今はイギリスの体を暖めるのが先と思い、ぐっしょり濡れた下着まですべて脱がせて、大きなバスタオルでくるんでやった。 裸になったイギリスの体には、明らかに尋常でない量の鬱血の跡があった。フランスがつけたものではない。 イギリスはそれらを隠すように体を屈めて、ずっと泣きじゃくっていた。 「イギリス、これは……」 「フランス……フランス……俺……」 「わかったから泣くな。大丈夫だから。辛かったな……」 タオルごと抱き締めて背をさすれば、イギリスは泣きながら頷いた。 「今着替え持ってくるから、大丈夫だぞ、イギリス」 安心させるように、顔中にキスを降らせた。きっとイギリスは貞操を守り切れなかったことで、フランスに捨てられるのではないかとか、そんな馬鹿な心配をしているに違いなかったから。 服を着せて、温かい紅茶を入れてやると、真っ青だった顔には少し赤みが戻り、手先の震えも収まった。 「言いたくなきゃいいんだが、……誰に、やられたんだ?」 「……アメリカ」 ぽつりと零された固有名詞に、フランスは静かに息を吐いた。 それならば、執拗につけられたキスマークも納得できる。あらかたフランスのつけたものを見て逆上したのだろう。 まるで、イギリスは渡さないとでもいうかのような、所有印。 いつかこんな日が来るような気がしていた。アメリカがすんなりイギリスを諦められるような、そんな男だとは思っていない。 ひょっとしたらイギリスの側も、アメリカに抱かれたことで何か思い出したのではないか、と突然浮かんできた可能性にどきりとした。 「……どう、だった?」 訊けばイギリスはサッと顔色を変えた。 その反応に、フランスは自身の発言の無神経さを悟る。 「なんだよ、それ……! 嫌だったに決まってるだろ! お前以外の奴にあんな……、俺、めちゃくちゃ抵抗したのに、あいつすごい力で……うっ……」 イギリスは怒鳴り声を上げて、再び泣いてしまった。 「ごめんフランス……ごめん……」 がん、と、頭を殴られた気がした。 目の前のイギリスの涙よりも、この涙を見たであろうアメリカが、どんな思いでいたのだろうかと、一瞬でも考えてしまったからだ。 あぁ、これはフランスにとって幸か不幸か、――イギリスは何も、思い出してなどいなかった。 最愛の人に抱かれてなお。 「フランス……」 なんだか無性に切なくなって、泣き続けるイギリスを、ぎゅっと抱き締めた。 「俺はそんなことでお前を嫌ったりしねぇよ……。だから、アメリカのことも、許してやってくれないか? な」 イギリスは腕の中で、ふるふると首を振った。 「俺……、あいつが俺のことそんな目で見てるなんて思わなかった」 「それだけ、お前のことが好きだったんだよ」 「違う! ……なんでお前が、そんなこと言うんだよ……」 まったくだ、とフランスは思った。こんな擁護をアメリカは望んでいない。ましてやフランスからの情けなど。 アメリカはイギリス自身に気づいてほしかったに違いないのに。 けれどイギリスは本気で抵抗して――きっと行為の間中――そうして今ここでフランスに縋って泣いている。 「俺すげぇ嫌だったのに……、嫌がってるのに自分のしたいように無理矢理……それがあいつの『好き』ってやつなのかよ!」 フランスは何も言えなかった。 イギリスがアメリカを拒否したこと、そんなのは、イギリスの本心でも何でもないと知っていたからだ。その本心を歪めてしまったのは、ほかでもないフランスなのだから。 そしてアメリカをそこまで追い詰めたのもまた、フランスなのだ。 アメリカを心の底から軽蔑しているイギリスを見るのは辛かった。そうじゃない、アメリカはただ、イギリスを愛しているだけなのだと、声の限りに訴えたかった。けれど今のフランスに、そんな権利などありはしない。自らそんな権利は捨て去ってしまった――あのノエルの奇跡の瞬間に。 「フランス……やっぱり俺のことなんか、お前好きじゃないんだろ?」 言い淀むフランスに、イギリスの震える声がかけられた。 「どうせまた、俺と付き合えって上司にでも言われたんだろ! だから俺がアメリカに何されようが……どうだっていいんだ! そりゃそうだよなぁ? 俺なんかのために、アメリカを敵に回したくないもんな!」 「イギリス!」 「バカみたいだよな、俺一人で舞い上がって……!」 自分なら、アメリカよりもイギリスを幸せにしてやれると、確かにそう思っていた。 愛される幸せを、自分なら与えてやれると。 どこで何を、間違えたのだろう――。 「愛してる……愛してるよイギリス……」 ちっともイギリスは、幸せなんかじゃなかったんじゃないか。 妖精は家の庭や、森の中にいる、とかつてイギリスが言っていたことを思い出しながら、フランスは雨の上がった夜の庭に、小一時間程立ち尽くしていた。時折木々に向かって、呼びかけを繰り返す。 「なぁ……頼む、もう一度、もう一度だけでいいから、奇跡を起こしてくれないか……?」 風がざわざわと木を揺らすだけで、当然返答もなければ、ピンク色の光も見えない。 「頼むよ、イギリスにアメリカの思い出を、返してやってくれ……!」 ああ、あの開拓地の懐かしい日々。 昨年の十二月、フランスが願った利己的な奇跡よりも、遥かに世界平和に貢献するであろう奇跡だというに。 世界の、そしてイギリスの、アメリカの、フランスの、幸せに。 歴史にも愛にも、「もしも」などありはしないのだ。わかっていながら、どうしてフランスはこんな愚行を犯したのだろう。 ああ、このまま背負って生きるには、あまりに重い罪状ではあるまいか。 結局自分は、自分が楽になりたいだけなのだ。今も去年も、本当に最低の利己主義者だった。 家に入ろうと踵を返したフランスの耳に、くすくすと風に乗って笑い声が聞こえてきた、気がした。 (2007/12/23)
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