寒さが日に日に和らいでも、人恋しさは――イギリスへの恋しさは、日に日に募っていくばかりだった。 日本ともあれ以来ぎくしゃくしている。 ここ三か月ほど、心から笑っていない。フランスやイギリスの姿をちらりとでも見るたび、名前を聞くだけでも、ばかみたいに鼓動が高鳴って、冷汗が伝う。 軽い鬱状態だ、と日本には言われた。 相手もいないまま、チェスの駒を一人で弄っている。最近どんなことにもやる気が起きなかった。 そんなときにかかってきた一本の電話。正直、外出する気分ではなかったが、その懐かしく優しい声音は、アメリカの疲れ切った心を惹きつけるに十分だった。 「遠路はるばる、申し訳ありませんでした」 出迎えてくれたリトアニアの笑顔に、片想いどころか、必死にイギリスへの想いを押し殺そうとしていたあの頃の記憶が蘇ってくる。 「アメリカさんがずいぶん投資してくれたって、すごく喜んでました。俺が昔お世話になったこと話したら、ぜひとも呼びたいって」 「ああ、うん。彼には期待してるからね。どうだい、EUは」 ここで言う「彼」とは、リトアニアのよき隣人であるポーランドのことで、今日アメリカがヨーロッパまで赴いたのも、彼らに招かれたからだった。 「なんとかやっていけそうです。一時期は本当にご迷惑かけましたが……」 言ってリトアニアは懐かしそうな目をした。その横顔に、リトアニアと過ごした日々の思い出が、懐かしく蘇ってくる。 「迷惑なんてとんでもないぞ! できたらまた来てもらいたいくらいだ!」 本心からそう言って笑えば、リトアニアははにかんだ。 迎えの車まで案内してくれたリトアニアの後について乗り込み、車窓に過ぎ行くポーランドの景色に目を遣る。 リトアニアとアメリカが過ごしたのはほんの僅かのあいだだったけれども、数多の歴史に埋没することなく、今もアメリカの胸に深く刻まれている。 彼は真面目でよく働いてくれたし、同い年の友人としても、多くの安らぎとアドバイスをくれた。彼といてイライラしたことは一度もないし、彼が家にいるというだけでなんとなく気楽だった。精神安定剤というか清涼剤というか、とにかく完璧な正の魅力を持つ、得難い人物であるという印象を受けたし、今もそれはまったく変わっていない。だから今一度、こうして彼とのんびりおしゃべりをしていることが、この上なく幸せだった。 傷つき萎縮していた心が、弛緩していくのがわかる。 「そんな……ありがとうございます。――でも、よかった。アメリカさん最近元気がないようでしたから、またそういう顔が見られて」 そんな嬉しいことを言って、リトアニアはにこっと笑う。裏も表も感じさせない笑顔。欲しいときに欲しい言葉をくれる深い気遣い。ああ、どうしてこんなにも、彼といると癒されるのだろうか。 「君に会えたから、嬉しくなったんだよ」 リトアニアに対しては、感じたままの素直な敬意も、淀みなく表明できる。 「よかった! でも無理しないでくださいね。アメリカさんはいつも頑張りすぎなんですよ。少し肩の力を抜いて」 「うん……そうかなぁ」 そうですよ、と静かに頷く。 そんなリトアニアに、アメリカはふと、切り出した。 「……まだまだ俺には、叶わないことがいっぱいあるみたいだ」 忘れよう忘れようと努めてきたその議題を自ら持ち出したのも、こうして二人静かに再会を喜ぶうちに、彼なら傷を抉ったりせずに、むしろ癒してくれるのではないかという確信を抱いたからだった。 リトアニアは黙って続きを促す。 「俺、いつになったらあの人から解放されるのかな」 リトアニアを家に受け入れていた当時にも、必死に捨てようとして、叶わなかった。 「いつになったら俺は、倉庫掃除を終えられるのかな……」 「……捨てる必要なんか、ないですよ」 座席に放り出していた手を、ぎゅ、と握られた。その目には、まるで我が身のことを語っているかのような熱と、切実さが込められていた。 「いつまでも持っていればいいじゃないですか。たまに取り出して埃を払って、眺めて思い出に浸ればいいじゃないですか。――それが『倉庫掃除』だと、俺は思います」 ああ、それが許されるなら、なんと寂しく、なんと悲しく、なんと幸せなのだろうか。 思わず目頭が熱くなって、俯いたアメリカの背を、リトアニアはいつまでも撫でていてくれた。 涙が零れ落ちているとき、人の心はいやに無防備で、与えられる優しさがすんなりと染み渡っていく。 このままずっとリトアニアといられたら、顧みるのが辛くて埃をかぶった倉庫の中は、美しいだけの甘い思い出に変わるだろうか。 ふと魔が差して、ぎゅっとリトアニアを抱き締めた。リトアニアは始めこそ驚いたような顔をして身じろいだが、やがてあやすようにアメリカの背に腕を回し、再び背を撫でていてくれた。 リトアニアの温もりを感じながらアメリカは泣いて、こんな風に涙を見せることが許される暖かい場所を、自分がずっと求めていたことを知った。 アメリカが落ち着く頃、車は目的地に着いて、アメリカは泣き腫らした顔を取り繕うようにゴシゴシ擦った。 リトアニアが「大丈夫ですか?」と優しく声をかけてくれたので、「大丈夫だ」と思えた。 「リトー! アメリカ! ようこそワルシャワへ!」 車を降りれば太陽は眩しく、街は人々の笑い声で活気に溢れていた。どうして車内があれほどまでに湿っぽかったのか、少し軽くなった気がする心には、不思議でたまらなかった。 本日のホストはきちんとスーツに身を包んで、ぶんぶんと大きく振り回すように手を振っていた。 「アメリカ、今日はポーランドのいいとこ全部見せるし! 期待してるんよ、これからもウチの産業にバンバン投資してくれると嬉しいし」 馴れ馴れしく近づいてきてバシバシとアメリカの背を叩いたポーランドを、リトアニアが慌てて止める。 「またそういう失礼なこと言って……!」 「あー、リト、案内ご苦労ー」 「手が離せない仕事があるからって言ってたけど、終わったの?」 「あ、ジグソーパズルのこと? ばっちし終わったしー。あとでリトにも見せてやんよ」 「ジ、ジグソー……?」 いけしゃあしゃあと言ってみせたポーランドに、リトアニアの肩がわなわなと震えた。 「じゃ、アメリカ、こっちだしー」 アメリカからしてみれば、こんな風にあからさまに腹を立てているリトアニアなど、槍でも降るのかというくらいの非常事態だったのだが、ポーランドはまったく意に介した風もなく、先に立ってアメリカを呼ばわった。 二人がずいぶん古くからの付き合いだということは聞いていたが、アメリカが知るリトアニアは、実はほんの一部分に過ぎなかったのかもしれない。アメリカは自分のすべてをリトアニアに見せてきたと思うだけに、いやにそれがショックだった。 ああ、リトアニアにもまたあったのだ、捨てられない倉庫の中身が。 それは時に胸を刺し、手足を縛るけれども、きっとそれこそがこの世に生を受けた理由、今の自身を形作る大切な基盤。 「いい加減にしてよ、ポーランドはまったくいつもいつも……!」 「マジうるさくねぇ? リトの説教聞き飽きたしー。それよりパルシュキ食わん? パルシュキ!」 ああ、少しくらい優しくされたからって、彼の代わりになるだなんて、彼の代わりにしようだなんて、なんて浅はかだったのだろう。 アメリカにイギリスが一人しかいないように、リトアニアもまた……。 「……アメリカ? どーしたん? お腹痛いん?」 「アメリカさん! 大丈夫ですか!」 蹲って泣き出したアメリカを、二人はたいそう心配してくれた。他国でいきなり泣き出すなどと、まったくもってアメリカらしくない行為で、国としても誉められたものではなくて、いかに自分が情緒不安定であったかと、それだけを思い知らされた。 (2007/12/20)
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