はっきりとわかった。今までの夢も奢りもすべて幻想だった。 自分はいまだにイギリスの足元にも及ばない。ただあの老大国に利用され、弄ばれ、踊らされゆくのみだ。 「いくら飽きたからって……捨てるなら捨てるで、もう少し繊細にやってくれよ……」 なんの罪悪感も感じさせない、イギリスの顔が頭をちらついて離れない。 あくまでも「妖精」だのなんだの筋立てを通す気なのか。恥も悪気もなく、よくやるものだ。 頭を抱えてひとりごちても、慰めてくれるものは何もない。 部屋の壁のコルクボード。ピンで無造作に留められていた写真を、引きちぎれるのも構わず乱暴に引きはがした。 イギリスとアメリカが笑っている。 アメリカの一挙一動にいちいち過剰反応して、泣いたり笑ったり赤くなったり青くなったり――。そんなイギリスに愛されていると、そんなイギリスよりも優位に立ったと、今までおこがましくも彼を笑っていた自分が本当に恨めしい。 本当に笑われていたのは、自分の方だったというのに。 もういっそのことこの写真もビリビリに破いてしまおうか。ちらりと思って、どうせ実行になど移せない自分を悟る。 そんなことをしても、自分の心が痛むだけだ。 せめて美しい思い出は美しいまま、幸せそうな笑顔はそのまま、そっとしておいてやろう。 気がつけば涙が頬を伝っていた。喉が締めつけられるようで、胸が絞られるようで、息が苦しい。 「……ッ、……ふ……イギリス……!」 ごめんなさいごめんなさい。 好きになってごめんなさい。 ――ああ、今ならわかる。 彼が千数百年来、恋い焦がれてきたのは自分など到底及びもつかない大人で、波乱の歴史の中で幾度となくイギリスを支え、イギリスに生きる希望を与え、イギリスを奮い立たせてきた、憎らしいあの男。 アメリカはイギリスにとって、あの男を――フランスを本気にさせるための、ただの捨てゴマに過ぎなかったのだ。 彼にとっての植民地はいつもそれだけのものでしかない。彼は生き抜くことの、幸せを掴むことの厳しさを痛切に知っていて、いつもそれに本気だった。利用され使い捨てられた負け組のアメリカが、異を唱えるのも、恨むのも筋違いだ。 ――世界とは、そういうところなのだ。 アメリカはイギリスの生き方を否定しない。アメリカは、イギリスの幸福を心から祝いたい。何百年もかけて、ようやく掴み取ったその夢を、邪魔もしない。 「イギリス……ッ、イギリス……!」 ごめんなさい、ごめんなさい。 どうか許してください。 諦めきれないことを、ずっと好きでいることを、どうか許して下さい。 「……日本」 数日後、アメリカ宅の玄関先に立った日本は、ぶすっと口を引き結んでいた。 「……私には、ヨーロッパの皆さんの考えていることが、よくわかりません」 「……君は、島国だから」 「だから何なんです」 「君は滅多に外敵の侵入を受けなかったって聞くよ。……でも、イギリスたちは違う。あの人たちにとって世界は――いつも、生きるか死ぬかの戦場なんだ」 「聞き分けがいいんですね」 気持ち悪い、と日本は吐き捨てた。 アメリカはそれに苦笑うことしかできない。 「コーヒーでいいかい?」 「……紅茶が飲みたいです」 日本がこんな自己主張をするのは珍しかった。当てつけのつもりなのかもしれない。 紅茶の匂いが思い出させる彼を、お前は諦めきれるのか、と。 「君の言うとおり、俺はずいぶん甘やかされて育ったみたいだ」 皮肉を無視して淹れたコーヒーを目の前に置いてやると、日本は無言でそれに口をつけながら、ちらりとアメリカに目を向けた。 「俺には一生、本当の理解なんかできないんだと思う。生きるってことが、夢を叶えるってことが、どんなに厳しい世界かってこと」 「すごく……苦いです……」 砂糖もミルクも入れず口をつけたのは自分なのに、日本はそう零して、静かにカップを置いた。 「イギリスにはそれがわかっている。あの人はいつも、生きることに対して一生懸命だ」 「それで、納得したフリをして、かわいそうにご自身を慰め続けて日々をお過ごしなのですか?」 「甘えていた、俺の負けなんだよ……日本」 しおらしいセリフを吐いたアメリカに、日本はやはりいい顔をしなかった。 ぎゅっと眉根を寄せて、膝の上に置いた手を固く握りしめて。 「君は、フランスの味方だったんじゃないのかい?」 「……あれから、さりげなくイギリスさんに何度も探りを入れてみましたけど、どうも返答がちぐはぐです。おかしいとは思いませんか?」 おかしいと思いたいのもムリはない。日本はまだ、友人イギリスが純粋にアメリカのことを想って恋愛関係にまで至ったのだと信じたいのだろう。イギリスのしたたかさから、彼はいつも目を背けてばかりだ。それは開国当時から、イギリスを紳士と崇め憧れ続けたための、一種のコンプレックスなのかもしれない。 「イギリスに捨てられた時……俺がフランスになんて言われたか、知ってるかい?」 「……いいえ?」 「イギリスは、妖精の魔法で、俺を育てた思い出を忘れた、だから俺はイギリスにとって、ただの『元植民地』になり下がった――だそうだよ? 波風立てずに俺にお引き取り願いたかったのさ、そういうことにしたいんだろう。だから、辻褄を合わせてる」 日本はもう「本当にそう思っているのか」とは訊かなかった。 「それで、アメリカさんはもう、イギリスさんのことは諦めてしまったんですか? あなたのイギリスさんへの想いは、その程度だったんですか」 まあ、わかっていたことですけど、と日本は自棄でも起こしたかのような強気の口調。 「……今はまだ、再起する元気がないんだよ」 いかに自分が浅はかな子供だったかという事実を突きつけられて打ちのめされて、すぐには立ち直れない。 自分は正論を言っているはずなのに、言い訳がましく響いたのが、アメリカには気に入らなかった。 「ムリですよ、あなたには」 やけに突っかかるような物言いに、アメリカは少しむっとした。突然訪ねてきて言いたい放題。いくら年上とはいえ、アメリカよりいくらも背の低い、頼りない外見の日本に言われては腹が立つ。 第一、イギリスとアメリカとのことに、彼は何ら関係がないはずじゃないのか。 「どうしてだい?」 「前も言いました。あなたではイギリスさんを幸せにできない。あなたは自分のことばかりで、少しもイギリスさんを想っているようには思えません。今回のことだってそうです。――あなたは、自分が傷つかないように精一杯で、すべてイギリスさんに負わせて、イギリスさんの真意など確かめようともしない」 自分が傷つかないように精一杯、と言うなら、確かにそうなのだろう。けれどそれ以外にアメリカに何ができるというのだろう。この辛さをやり過ごすのに、アメリカがどれだけ涙を流したのか、知りもしないくせに、勝手なことばかり。 「真意? 俺はフランスを得るための捨てゴマだったんだぞ、それ以外に何があるっていうんだい?」 「その被害者ぶった考え方が、自分本位だっていうんです」 「……はいはい、俺が捨てられたのはイギリスが悪いんじゃなくて、俺が悪いって言いたいんだろう?」 前にも聞いた、日本の説教。 そんな話を、今この瞬間に甘んじて聞かねばならないほど、アメリカは悪いことをしたのだろうか? どいつもこいつも、すべてアメリカのせいにして、アメリカからすべてを奪って――どいつもこいつも、それでいて正義の代弁者面をする。 悪いのはアメリカで、自分はそれを改心させるヒーローだ、とでも? こんなのは弱い者いじめ以外の何ものでもないじゃないか。 「私は、そういう建設性のない批判をしにきたのではなくて――」 「だったら……少し黙ってくれないかな……」 日本は信じられないものを見るような目で、アメリカを見上げていた。カーペットの上に散らばった短く黒い髪。ぎりりと両肩を押さえつける腕に力を込めれば、アメリカの体と床に挟まれた日本の頼りない体が、びくりと緊張するのがわかった。 「……このまま君を犯しても、イギリスは何も感じないかな……」 「……ッ、や、めてください……ッ!」 アメリカの体を押し返そうとする細腕を捉えて、再びカーペットに縫いとめる。 このまま舌を噛み切って死んでしまいそうなほど屈辱と憎悪に満ちた瞳をして、アメリカを睨みつけ、それでも抗うこと叶わない日本を見下ろして、アメリカのちっぽけな征服欲はずいぶんと満たされた。 薄く笑ってみせる。 許すものか。これ以上、アメリカを傷つけることを、何人たりとも許すものか。 アメリカを悲しみの淵に閉じ込めていいのは、イギリスだけだ――。 その瞬間、鳩尾に鋭い打撃を感じて、アメリカは思わず腹を押さえてうずくまった。少し油断した間に、日本の膝蹴りがきれいに決まったのだった。 日本は解放された瞬間、アメリカの下から這い出すと、ぜえはあと呼吸と身だしなみを整えて、それでもまだ、興奮で立ち上がれないようだった。 「……私は、ただ……ッ、あなたにもイギリスさんにも、幸せになってもらいたかっただけです……!」 「は……よく言うよ……! 俺の不幸を嘲笑って、傷口抉るようなマネして、楽しいかい……!」 「私にはッ、イギリスさんがあなた以外の人を愛せるようには思えませんでした……、だけど私には同時に、あなたがあのままで、イギリスさんを幸せにできるとも思わなかった……!」 「君はさっきから、真実すべてを知り尽くしてるような口ぶりだけど、生憎君の見立ては大ハズレじゃないか! イギリスのどこが俺を愛してるって? それならどうして俺を捨てるんだよ! それならどうして、あんな風に、なんでもない顔で俺に話しかけられるんだよ!」 「だから、わからないって言ってるじゃないですか最初から!」 日本は叫んで、泣き出した。 「……なんで、君が泣くんだよ……」 泣きたいのは俺の方だ、と言えば、もう泣いてるじゃないですかと返される。 ああ、どうしてこんなにもアメリカばかりが、惨めな思いをしなければならないのだろう。 (2007/12/19)
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