魔が差した、とは、こういうことを言うんだろう。
 ずっとずっと我慢していた。イギリスがアメリカを想っていることに気がついてから、ずっとずっと、厳しく自分を律してきた。
 こんなことをしても、自分もイギリスも幸せになれないだろうと知っていたからだ。
 ――けれど、勝負はアメリカの負けだった。
 あれはいとも簡単にひとつの「元植民地」になり下がって、イギリスはフランスの腕を取り「一緒にいたい」と言った。
 こんなのは、自分が勝手に仕掛けた勝負であって、もちろん公正なものではまったくない。フランスだって、イギリスとの間にあった数々の思い出を消されてしまったら、きっと見向きもされないのだろう。
「農業しか、取り得ないしな……」
 ぽつりと呟いたら、隣でもぞりとイギリスが動いた。どうやら起きていたらしい。
「……なんか、久し振りだったな……お前とこうやって……寝るの」
 はにかみながら言うから、つられてフランスも笑ってしまった。いや、笑ったつもりだったが、その顔は泣き笑いのようになってしまった。
「うん、すごく久しぶりだよな……」
 安心させるように髪を梳けば、イギリスは心地よさそうに目を閉じた。
「……あと5分で、ニューイヤーだ」
「そうだな」
 ああ、あの広い広い大陸で、アメリカは今頃膝を抱えているだろうか。
 想像したらあまりに似合わなくて、フランスは泣きたくなった。いいや、たぶん違う。アメリカはそんなにしおらしい奴じゃない。
 きっともっと、フランスには想像もできないようなことを考え、またやってのけるに違いない。
 ヤケになって、日本あたりを巻き込んでニューイヤーズサプライズパーティでも本当に開いていたりして。
 今、イギリスがフランスとこうしていることを知ったら、彼はどうするのだろうか。
「俺、今日は別にお前に会いたかったからとかじゃなくて、俺のために、ほら、なんかいい情報くれるかもとか思ったから出てきてやったんだけど――そこは勘違いするなよ! けど、……お前と年を越せて、その、本当によかった……」
 素直なんだか素直じゃないんだか。
 フランスは思わず、イギリスを掛け布団ごと抱きしめた。
 本当に? 本当によかったのか?
 声にならない疑問は、短い呻きとなって喉の奥から絞り出される。
 本当に今この瞬間、ここにいるのはフランスでよかったのか。
「……Happy new year」
 ぼそり、とイギリスが言った。その幸せそうなイギリスの顔には、見覚えがあった。
 あのノエルの日、アメリカと他愛ない話をしながら後片付けをしていた、あの時の顔だ。
 大切な日を大切な人と過ごせて本当に嬉しい。そういう顔だった。


 アメリカに言おうと思った。
 イギリスはアメリカと過ごした日々のことを忘れてしまった。それは紛れもない事実であり、フランスは、そんなイギリスを事実上アメリカから奪ったのだ。それもまた、事実だった。
 黙って何も知らないフリをして、このままイギリスを大事にしてやるのは簡単だったが、それでは意味がないのだと思う。
 フランスはただアメリカからイギリスを奪いたかったわけではない。
 お前のような利己的なやり方では、イギリスは幸せにしてやれないのだと、イギリスはそんな風に軽んじられるべき人ではないのだと、ただ知らしめてやりたかった、そんな気がしていた。 
「年明け早々、大事な話ってなんだい? あ、Happy new year!」
 フランス宅に現れたアメリカは、最愛のイギリスにひどい仕打ちをうけたばかりだというのに、からりとした笑顔で暢気に新年の挨拶まで忘れない。
 新たな年が始まった瞬間、アメリカといることを拒んだイギリスが、目の前のフランスと一緒にいたとも知らないで。
「Bonne année、まあ座れよ」
 湯気の立ったコーヒーを目の前に置いてやると、アメリカは大人しく角砂糖を二つ入れ、くるくるとかき混ぜ出す。
 フランスは自身も気持ちを落ち着けるために、コーヒーに口をつけた。ふー、とゆっくり息を吐き出す。
 カチャ、カチャ、と先程から耳障りな音が続いていて、何事かと音源に視線をやれば、アメリカがいつまでもいつまでも、コーヒーをかき混ぜているのだった。白いカップの淵やソーサーには跳ねたコーヒーの色がついて、よく見れば、アメリカの指先は震えている。
 寒かったのだろうか、などとは思わなかった。
「あのさ……」
 切り出せばわずかに肩を揺らしたが、次の瞬間には、ばかみたいな笑顔を返してくる。
「なんだい?」
「お前、妖精って信じるか?」
「……俺は、どこかの誰かさんとは違うんだよ」
「うん、そうだな」
 カチャン、とアメリカはスプーンを置いた。けれどコーヒーに口をつけるわけでもない。
 沈黙が降りる。
「……ノエルの夜にな、俺の願いを叶えてくれた妖精がいてな」
 今度はアメリカも、笑い飛ばそうとはしなかった。
「何を、願ったの」
「イギリスが、お前を育てた思い出を、全部忘れますようにって」
 イギリス、という単語を出した瞬間、アメリカはサッと顔色を変えた。
 しばらく俯いて、何も言わない。
「……アメリカ?」
「……それで? 続きが、あるんだろう」
 ああ、アメリカは何かを待っているのだ、と思った。
「それで、イギリスはお前との思い出を忘れて、お前はただの他人になった。ただの『元植民地』。だからあいつは、お前の誘いを断ったろ?」
 死刑宣告のように待っている。
 それはたぶん、フランスがこう、言うこと。
「イギリスは大晦日の夜、俺といた。……俺と、寝たよ」
 ガチャン、とカップが倒れ、コーヒーがテーブルの上に広がっていく。アメリカが力任せに、テーブルを叩いたのだった。
「……ッ妖精だなんてバカみたいなこと言い訳にして、どうせそれ考えたのもイギリスなんだろう!」
 恐ろしい力で襟首を掴んでくるアメリカを、フランスは振りほどけなかった。殴るなら殴ればいい。
 イギリスという自分に都合のいい玩具を失って、奪ったフランスを恨めばいい。自身の行動など、まったく省みることなしに。
 アメリカの強みは所詮、幼きあの日々、イギリスに「家族」という幸せを教えたことだけ。何度イギリスを泣かせても、何度イギリスに寂しい思いをさせても、その過去に胡坐を掻いて、驕り高ぶっていた安っぽい愛を、悔やむことなしに。
「そんなこと言い訳にして、君は自分がバカだとは思わないのか!『イギリスに心変わりさせたのは俺だ』なんて責任でも感じてるつもりかい? それとも、俺がイギリスに暴力でも振るうと思ってるの? ――俺が嫌になったなら、イギリスが自分でそう言いに来ればいい! こんなバカなことして……二人で俺を嘲笑ってたんだろう!」
 アメリカはしばらく肩で息をしていたが、やがてあっさりフランスの首元から手を離すと、「……いや、違うな」と力なく首を振った。
「……君、ずっと、俺じゃイギリスは幸せにできないって思ってただろ」
 は、とフランスは息を呑んだ。
 この男は、自らがイギリスに相応しくないと思われていることを、知っていたのか。
「俺が何も知らないとでも、思ってたのかい?」
 その瞳は、フランスが思っていたよりずっとずっと大人びていて、フランスは何度目か、このままではいけないと、心のどこかで警鐘が鳴るのを聞いていた。
 このままではいけない。
 ――誰も幸せになんてなれない。わかっていたはずじゃないのか。
「……そうやって、最後だけ聞き分けのいいフリして、そうすればカッコイイとでも思ってるのか? お前にはイギリスに捨てられるだけの心当たりが、ここに来る前から分かってたほどあるくせに」
 自分の声は思った以上に冷静に響いた。アメリカは涙に濡れた顔を上げ、フランスを睨んだ。その顔は完全に、敗者の顔だった。
 いいや、罪悪感に揺らいではいけない。確かにフランスのしたことは卑怯かもしれない。けれど、こいつはこういう奴だ。
 いかに自分を取り繕うかということに精一杯で、いつまでも世界の中心であると、正義は我にあると勘違いをしている。
 今もこうして被害者の顔をして、そのくせイギリスへの愛は語らない。
「……俺が、幸せにしてやるよ。お前にはできなかったことを、俺がしてやる。お前にはこれ以上ない屈辱だろう?」
 他人にできて自分に実現できない正義があるなど、お前には認められまい。だからこそ、イギリスのために身を引き続けたフランスは、アメリカの「愛し方」が嫌いだったのだから。


















(2007/12/13)



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