「サディク」
てのひらの上の小鳥に呼びかける。
「……サディ、ク」
今度は、ここにはいない、あの人へ。
いい天気だった。暑くもなく寒くもなく、空はよく晴れて美しい。
それでもギリシャは、日が沈むのが待ち遠しい。きっと今よりもっともっと、美しい空が見られるに違いなかった。
彼と――サディクと見る空だから。
そんなときだった、部屋の前を、見たくもない無表情な仮面が通りかかったのは。
完全無視を決め込んだが、あちらにはそんな気はないらしい、格子ごしに「よぉ」と手まで挙げて。
何のマネだ。
「相変わらず閉じこもってんなぁ……小鳥の具合はどうだ?」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
なぜ。
なぜトルコが、そんなことを知っている。
頭にかぁっと血が上ったのがわかった。机の上にあった金属製の燭台を、力任せにトルコに向かって投げつける。それは格子に跳ね返ってがしゃんと落ちた。
「ちょ……危ねぇだろうがクソガキィ! モノは大事にしやがれ!」
トルコが何か怒鳴っていたが、必死で耳を塞ぐ。
汚された気がしたのだ、自分と彼との、幸せな時間、二人だけの秘密を。
支配者から隠れたささやかな胸躍る時間、一人の人としての、一つの国としての幸せ――あぁ、でもそう思っていたのはギリシャだけだったのだ――。
この宮殿ではトルコがすべて。誰もトルコに逆らえない。たぶんサディクだって、そうなのだ。
すべてにトルコの息がかかっている。
「……消えて」
どこまで、ギリシャの幸せを奪い取れば気が済むのだろう。
「テメェ、その言い草はなんでぇ! 無礼も程々に……」
「うるさい! 消えろッ!」
いつのまにか自分が肩で息をしていることに気がついた。今まで出したこともないような大声に、耳もとでうなりが聞こえる。
憤慨した様子でトルコが部屋の中に乱暴に入ってくるのが見えた。
もう、どうなってもいい、と思った。 何があっても、何をされても、この男にだけは屈しない。
「何か気に食わねぇことがあるなら言ってみろ」
ギリシャの眼前に仁王立った男は本当に大きくて、足が震えた。それでも今は、大切な領域にまで土足で踏み込まれたような憤りの方が勝っていたから、精一杯睨みつける。
「全部。お前の全部が憎くて仕方がない。今すぐこの世から……消えて」
「笑えない冗談だな、エェ? 今なら聞かなかったことにしてやるぜィ?」
バキバキ、とトルコの関節が鳴る。ギリシャは震える歯を食い縛った。
「トルコ様! 陛下がお呼びです。後にして下さい」
そこへ、トルコを探しに来たらしい高官がイラついた声を出したから、トルコは軽く舌打ちして、「頭冷やせ!」と怒鳴りながら去っていった。
悔しいので、去る背中に「死ねっ!」と力一杯の音量で投げつける。トルコはそれに振り返りもしないで、そのまま見えなくなった。
途端、張り詰めていた感情の糸が途切れる。震える息を吐いた瞬間、腰が抜けて涙がこぼれた。
「……ふ……くっ……」
忌々しいトルコ、小さな逃避さえ許さない、それでいて何も悪びれたふうもなく。
「サディク……」
早く、あの大きく優しく温かい手に、頭をなでてもらいたかった。
禁じられた遊び
ああ、せっかく、受け容れられたと思っていたのに。
やはり子供だ。気分でコロコロ態度を変える。
彼が何をしたいのか、支配者たるトルコにはさっぱり分からない。
強者ゆえに、見えないものがある。
「……くっ」
力任せに剣を振った。ざくり、と練習用の巻き藁をかすめたそれは、いつもより重く、扱いにくい気がした。
「調子、乗らねぇな……」
ふー、とため息をついて汗を拭う。
ふと思いついて、ギリシャの部屋を見ると、その窓には何の人影もないだろうと思っていたのに、いつものように、ちょこんと顔を出してこちらを見つめる小さな影がある。
トルコは軽く目を見開いた。
剣をその場に置いて、ゆっくりそちらへ歩み寄った。
「……機嫌、直ったんかぃ」
先ほどの一悶着を思い出すと、どう接していいかわからなくなるトルコに対し、ギリシャは落ち着いたものだ。ふるふると小さな首を振った。
「別に……怒ってない。……しょうがなかったんだろう?」
何が「しょうがなかった」のか。怒鳴りつけたことか。
当たり前だ、幼い子供に理由もなく「消えろ」と言われて放置していては、トルコの沽券に関わる。ギリシャには礼儀作法を身につけた大人になってもらいたいことでもあるし。
宮殿内ではスルタンにも並ぶ地位を保っている自分に無礼を繰り返すギリシャに対し、高官たちはいい顔をしない。子供なんだし、のびのび育ててやればいいじゃねぇか、という意見は黙殺された。
それでも、国という存在を扱い慣れない、人間である彼らは、結局支配方針に関してはトルコに従わざるを得ないのだが。時のスルタンもトルコを重んじ、意見をよく容れてくれる人物であった。
だがしかし。
「しょうがなかった、てぇのは……」
こいつは何を言っているんだろう。怒ったことなら許してやるとでも言わんばかりの、ふてぶてしい言い方に、正当性があるとでも思っているのだろうか。
もう本気で殴った方がいいかもしれない、と考えていると、ギリシャがふいに微笑んだから、その気も削がれてしまった。
「サディクの羽、もう生えないのか?」
子供特有の大きな瞳が見上げてくる。
「羽ェ? ……あぁ、鳥のか」
昨日ギリシャが、自分の名を鳥に与えてもいいか、と訊いてきたのを思い出した。かわいいところもあるもんだ、と少し嬉しくなった途端、態度を翻したかのように「消えろ」と言われて、ますます訳がわからなくなったのだった。
子供って疲れるなぁ、とぼんやり思いながら、器の中の小鳥に目をやる。
羽は無残にところどころ禿げたまま。
正直トルコは、この鳥がそれほど長生きするとは思っていなかった。自然の掟とは厳しいもの。こいつはそれに負けたのだ。もう生きる意味などない。
だが子供の前で、そうした本音を言うべきでないこともまた、分かっているつもりだ。
「大丈夫、そのうち生えてくるだろうよ」
「そうか」
自分の言うことを無条件に信じて笑った顔が、年相応に無邪気だったので、トルコは胸が温かくなるのを感じた。
「お前、たまには外に出る気はねぇのか?」
常日頃から言っていることだが、繰り返してみる。
見上げた顔に、嫌悪はない。どうやら壁を超えたようだ、とトルコは嬉しくなった。
「市場とか。お前行ったことねぇだろ、今から行かねぇかぃ?」
雑多な喧噪。賑やかな活気。
きっと子供の好奇心を満たすには十分すぎる。
見せてやりたい、と思った。
「……サディクと?」
普段あまり呼ばれることのない、そちらの名前を呼ばれると、反射的に身構えてしまうのだが、すぐに、それはギリシャにとって小鳥を指すことを思い出す。
「いや、その鳥は置いて行け」
ギリシャは何か言いたそうに目を泳がせる。
「そうじゃなくて」
なんだろう。
くい、とトルコの服の端を引いて、見上げてくる大きな目。
その動作に、言わんとするところを悟る。
「あ、おう、俺と?」
「うん」
もちろん、とトルコは笑った。
「迷子になったら大変だからな」
「そんなに広いのか? 市場」
子供の目が輝いた気がした。いつも虚ろな目をしているこの子供が、はしゃいでいるのは見ていて本当に嬉しくなる。
「おうよ、広い広い。色んなモンが売ってんぜぇ、きっと楽しいだろうよ」
「行こう。行きたい!」
「じゃあ服着てくるから待ってな」
私用で外出するときには、いつも地味な庶民の格好で出歩くことにしている。もちろん仮面もつけない。ギリシャも宮殿内で着ているそのままの服では目立つだろう。何か探してこなければ。
「あ……練習は、いいのか?」
踵を返したトルコを、ためらいがちにギリシャが呼び止める。
まだ空はうっすら赤くなったばかり。
「ああ、今日はどうせ調子出なかったからな」
ああそうだ、ついでに練習用具も片づけなければ。
手早く身支度を済ませて、二人で宮殿を発った。
はぐれたら大変だと手を伸ばしかけて、「嫌がるかもしれねぇな」と逡巡する。そんなことを二、三度繰り返して、思いきって手をつないでみると、意外にもギリシャは怒らなかった。
市場に着くと、ギリシャは圧倒されたようにぽかんと口を開けて、しばらくきょろきょろしながら、トルコに手を引かれるがままに歩いていた。
「これはなんだ? きれいだな」
ふと興味を引かれたらしく、立ち止まった先には、アクセサリーが並んでいる。
ターコイズの首飾り。ほんのり緑がかったそれは、確かに美しかったが、トルコの経験から言わせてもらえば、その店に並んだものはほとんどが劣悪品だった。
それでも、子供のおもちゃみたいなものだと考えれば、別に害はないのかもしれない。
「欲しいのか?」
「……うん」
「オヤジ、いくらだ?」
返ってきた値段に、やれやれと思う。
この劣悪品を、何も知らない輩に高く売りつけようという魂胆らしいが。
「これが?」
威圧するように睨みつけると、作戦失敗を悟ったらしい、素直に値段を下げてきた。
それでもまだ高いと思ったが、ほどほどのところで手を打つ。
「ほら。おお、似合う似合う」
買ったそれを子供の首にかけてやる。紐を結び直して、長さを調節した。
「……ありがとう」
自分で欲しいと言ったくせに、ギリシャの目はまんまるに見開かれて、すぐに、くしゃりと笑顔に変わった。
しばらく指先で石をいじっては、親の形見でもあるかのように確かめている。
安物でもそこまで大事にされれば、存在する甲斐があるというものだ。
「お前の目みてぇだな」
ギリシャの胸元で光るその色は、あまり価値のないものであることを示す色合いだったけれど、それが逆に、とてもきれいなものに見えてくるから不思議だ。
子供は誇らしげに笑った。
その後も色んな店を物色したけれども、ギリシャはその首飾り一つで満足したらしく、何も「欲しい」とは言わなかった。
トルコも特に買う物もなく、辺りもずいぶん暗くなったので、帰ることにした。
帰り道も嬉しそうに石を眺めているギリシャに、思わず笑みがこぼれてしまう。
「よかったなぁ」
そんなに嬉しいか。
するとギリシャは「あ」と何かに気がついたように、トルコの方を向いた。
「……これ、トルコには内緒に、してほしい」
「は?」
一瞬何を言われたのかわからなくて、立ち止まったトルコに気づかず、ギリシャは歩き続ける。
つないでいた手がほどけて、そこでようやくギリシャは振り返った。
「サディク?」
不思議そうに呼ばれて、ようやくすべてが符合した。
「あ、ああ……」
簡単なことだった。
思えばギリシャが機嫌よく自分に笑顔を向ける時、自分はいつも仮面を外していたのではなかったか。
名前は何かと訊かれた、どうしてその時おかしいと思わなかったのだろう。
今この子供は自分のことを、「トルコ」とは違う「サディク」という人物だと思っているのだ――。
ああ、なんだ。
そんなことか。
ようやく受け容れてくれたのだと思っていた。どんなに寛容に接しても、自分に憎しみしか向けない子供。
なんて愚かな。
人の、国の恨みや憎しみなど、そう簡単に消えるものではないということを、自分は知っていたはずなのに。
勘違いをした。なんて、なんて愚かな。
自分は一度たりとも、ギリシャに受け容れられてなどいなかったというのに。
そして更に残酷なことに、この事実に打ちのめされるべきは、自分だけではない。
「なあ……ギリシャ」
呼び止めると、「何?」と未だ興奮冷めやらない笑顔で応える子供に、何も言えなくなった。
ようやく外出して、生きる楽しみを思い出した子供。
年相応に笑い、甘える。
再び憎しみと絶望の淵に叩き落とすことなど、どうしてできようか。
身の回りのものすべてを恨んで、呪いの言葉を吐くだけの、寂しくて孤独で、どうにかなってしまいそうなその生活に。しかも今度は、一度信じたものを裏切られ、更に深みを増して。
「……いや、そうだな、……トルコには内緒な」
ギリシャを部屋まで送り届けて、自室に戻った。
すっかり真っ暗になった部屋に、灯りを入れる気にもならない。
「……哀れなガキだな」
ちっぽけな体で、見ているこちらが痛々しくなるほど、支配者を憎しみ続けて。高い矜持に、いつか内側から刺し抜かれてしまうのではないかと思った。
それでも、それならそれでいいと思っていたはずだった。どうなろうとそれはギリシャの勝手で、トルコの知ったことではないと。
「情が移るってこういうことかねぇ……」
かりそめとはいえ、向けられた笑顔に、打ち捨てることができなくなった。寄せられる信頼、あまりにもいたいけな体、心。
どうせすぐにバレる、と心のどこかで声がした。
今真実を告げなかったとしても、どうせいつかは分かってしまうことだ。
けれど傷つけたくはない。もし真実を知れば、あの子供はどうなってしまうのだろう。
きっと悔しくて惨めで憎くて。
「俺にどうしろって言うんでぇ……」
そう呟きながら、自分が取るであろう行動はうすうす分かっていた。
もう二度とギリシャの前で仮面は取らない。そうして、ギリシャがその顔を忘れてしまうくらい時が経つのを、ただ待つだけだ――。
(2007/9/14)
(C)2007 神川ゆた(Yuta Kamikawa)
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