仮面をした怪物のような男が、有無を言わさず自分をここへ連れてきた。
 あんなに大きかった――ギリシャ世界をも包摂した――ローマはいつしか半分になり、盛り返したかに見えた東半分もついに滅びた。滅ぼされてしまった。これで完全に、ギリシャは母の系譜を、母へとつらなるものを、失ってしまったことになる。
 滅ぼした男は、ギリシャの大きな損失などには構わず勝手に話を進めて、「反抗せず税さえ納めりゃあ後は自由だ」と押し付けがましい言い草。本気で殺してやりたいと思った。憎悪が腹の中で燃え広がるのを感じた。
 ――俺を誰だと思っている。
 生かしてもらって嬉しいだろう、とでも言いたげな態度が本当に憎かった。こんな屈辱を受けるくらいならば、いっそ殺せ――。
 母の偉大さを微塵も理解せず、それでいて完全には征服者然として振る舞わないのが余計に腹立たしかった。
 ふざけるなふざけるな、お前のような、ターバン巻いた異邦人に、神の教えを理解しないバルバロイに、決して気を許したりなどするものか。言いなりになどならない、お前の都合のいいようには動かない。
 何もかも塗り替えられた生活に、立ちくらみがしそうだった。わけのわからない建築、美術、服装、食事、習慣――。

 神よ。

 この世界は間違っている。

 宮殿の片隅に自室を与えられた。あの仮面は「たまには外にでも出ろぃ」とうるさかったけれども、言われれば言われるほど、そうするのは癪だったから、閉じこもってばかりいた。
 憎い憎い憎い、あの男を殺してやりたい。そんな単純な願いも叶えられない、小さく貧弱な手足が許せなかった。
 賛同者は、いない。
 虐待されているわけではない、何不自由ない暮らし。食事だってそれなりに美味しい。労働を強いられるわけでもない。
 言葉にしてしまえば、あまりにひとりよがりな感情。それでも確かにこの胸に宿り、燃えたぎり、消せないもの。消してはいけないもの。
 誰に理解されずともよい、と思った。これは誇り高きヘレネスの血を引く自分が、この世界にあらわれた瞬間から、守っていかなければならないものなのだ。
「おいちび、何を思い上がってるのか知らねぇがよ、テメェは征服されたんだ。いい加減受け入れろい。そうすりゃずいぶん楽になるぜぃ」
 憎すぎてどうにかなってしまうのではないかと思った。体中の毛が逆立つくらいに、腹の底のどろどろしたものがたぎった。
「……死ね」
 呪詛の言葉を吐いても、相手は軽く肩をすくめるのみ。
 陰の落ちた仮面は薄気味悪く、その中身が、自分と同じ人間だとは到底思えなかった。

 そんな日々の中で、恋をした。
 生まれて初めての恋だった。



赤い実 はじけた




 彼がいつも決まった時間、宮殿の広い中庭で剣の練習をしているのに気づいたのは、最近のことだ。
 ギリシャの部屋からは、中庭がよく見える。
 汗をかくからか、ほどよく筋肉のついた褐色の広い背中を惜し気もなくさらして、無心に剣を振るっている若い男。
 ちょうど西日の差してくる時間帯で、赤い光を反射する剣ときらきら光る汗が、なんて美しいのだろうと思った。
 その背中をこっそり眺めている時間だけは、すべての怨恨から解き放たれて、鮮やかな感情に胸躍らせている自分がいた。
 この宮殿にいるからにはトルコの関係者に違いないのだが、彼は、トルコに素直に従おうとしない自分をどう思うだろうか。
 けしからんと思うのだろうか、それとも、こんなちっぽけな自分など歯牙にもかけないだろうか。
 後者ならばなんて悲しい、と、自分の思考に打ちのめされそうになった。
 真っ赤に燃える太陽が、きらきら光る彼を照らして、とても眩しい。思わず目を細めた瞬間、ふと振り返った彼と、目が合ってしまった、初めて。
 慌てて壁に身を隠す。
 胸がどきどきして破裂しそうだ。
 若く精悍な顔立ち。目が合った瞬間、浮かんだ笑顔――。
 どくどく体中が脈打って、胸がきゅうと締めつけられるように苦しい。
 しばらくその場にうずくまって、熱い体をもてあましていると、中庭に面した窓から、低く、それでいてよく通る声がした。
「お前ぇさんもやってみるかい、ちびすけ」
 びくんと跳ねて振り返る。窓から覗かせた顔は、遠くで見るより遥かにかっこよくて、ギリシャは何も言えなくなった。
「閉じこもってばっかいると体に悪いぜぃ」
 言っていることはトルコと同じなのに、笑った顔が優しすぎて。
 ふるふると必死に首を振ることしかできなかった。
「そうかぃ。まぁ、気が向いたら来いや」
 そう言ってぐしゃぐしゃと、髪の毛をかきまぜた大きな手。
 再び中庭へ戻っていく背中を見つめながら、ギリシャは、幸せってこういうことか、と思った。
 不思議なものだ。人は――正確にはギリシャは人そのものではなかったけれども――どんな状況であっても、幸せを見つけられるのだと思った。
 翌日も懲りずに練習風景を眺めていたギリシャに、当然のごとく彼は気がついて、また静かな微笑みを浮かべた。今日はほんの少し笑みを返すことができて、ほっとした。
 もっとも、次の瞬間には体が勝手に隠れてしまっていたのだけど。
 無理に誘ってもギリシャは出てこないと思ったらしい、彼はそのまま練習を続けたので、ギリシャも再びもとの位置に戻って、見学を続けた。また目が合って隠れて。そんなことを三度ばかりくりかえすと、あたりはずいぶん暗くなっていた。
 次の日も、その次の日も同じことをくりかえした。ちがうことといえば、ギリシャが二回に一回は隠れずにいられるようになったことくらいだ。
 幸せだった。神話の中に迷い込んだかのような、美しく神々しい時間。
 それは一日のうちほんの一時間あるかないかの、寂しい幼心を満たすにはあまりにささやかなものだったけれども、ギリシャはそれで十分だった。
 ある日その至福の夕暮れ時、神話の世界に、もう一人の登場人物が現れた。否、正確には「人物」ではない。
 のそりと庭を徘徊していたその猫は、ギリシャに近い植え込みにもぐりこむと、何かに興味を引かれたかのように、にーと鳴いた。さかんに手を動かしては、一点を突いている。
 いつものように恋い焦がれた背中に夢中だったはずが、いつのまにか、視界の端にちらつく猫の動きが気になって仕方がない。
「だ、め!」
 気づいたときには、思わず声を上げていた。
 部屋から飛び出して、猫を持ち上げる。猫は突然の襲撃に驚いたのか、全身の毛を逆立ててじたばたとギリシャの腕を腹を蹴った。
 ぱ、と手を離すと逃げるように去っていく。嫌われたかな、ギリシャは思いながら、土の中に倒れた小さな白をすくい上げた。
「……どうしたんでぃ」
 思いもよらず近いところで大人の声がして、びくんと姿勢を正した。ギリシャのすぐ後ろ、体温すら感じそうな距離に、振り向くことはできない。
 彼だ、彼に決まっている。
「あー……相当弱ってんなそりゃ」
 続いた言葉に、それどころではなくなった。手の中の、ばかみたいに軽いものを――白い羽を赤く染め、たまに抗うようにはばたく小鳥を、乗せた両腕が震える。
「あー、わかったわかった、手当てしてやろう、な?」
 焦ったようなその声に思わず首を巡らせれば、夢にまで見たあの優しい顔で。小鳥を託した大きな手も、この上もなく頼もしく見えた。
 彼は近くの一室にギリシャを手招きすると――彼の手にかかれば、小鳥は片手にすっぽり納まってしまうのだった――魔法のような手つきで、みるみるうちに小鳥に治療を施していった。きっちりと包帯に包まれた小さな体はまだぐったりしていたが、大きめの器に布を敷き詰めた簡易ベッドに入れて手渡されると、もう大丈夫という気がしてくるから不思議だ。
 思わず安堵の笑みをこぼした子供の頭をなでて、男もまた笑った。
「色々嫌なこともあるだろうけどよォ、笑ってた方がかわいいぜい、子供は」
 子供扱いされたことに、少しショックを受けた。
 ただ、その日から毎日、鍛練後に彼がギリシャの部屋を訪れて、小鳥の経過を見がてら、ギリシャに笑顔を向けてくれるようになったのは本当に嬉しかった。
 小鳥の傷はすぐに治ったが、そこだけ抜け落ちた羽は元に戻らなかったし、器の外へ出ようとする様子も見せなかった。
「大丈夫か?」
 彼と一緒に餌をやりながら、ギリシャは小鳥に語りかける。この宮殿では彼とこの小鳥だけが、ギリシャの話相手だった。といっても、緊張と気後れが混じって、前者にギリシャから語りかけることは滅多にないのだが。
 ふと思いついて、ギリシャは高い位置にある彼の顔を見上げる。もう日はすっかり沈んで、はっきりとは見えない。それでも勇気が出なくて、長い間ためらった。
 その間、彼は何も言わない。まるでギリシャの勇気が出るのを待ってくれているかのように。
「……名前、何?」
 ようやく絞り出し、静かな薄闇に響いた声は、自分でも驚くほど無愛想だった。
「名前? 俺か?」
 それでも彼は気にしたふうもなく言う。ギリシャは小さく頷いた。
「……そりゃ、あれかい? 人間の名前って意味か?」
 再び頷いた。国の名前でも人の名前でも、どちらでも構わなかった。これ以上言葉を発する勇気など、いくら振り絞っても出そうにない。
「サディク」
 耳慣れぬ名前を、舌の上で転がしてみる。
「さ……でぃく?」
 言いにくいそれは、何か大切な合い言葉か何かのように思えた。
「それ……この鳥に、付けてもいいか?」
 彼は納得がいったというように破顔して、「そんなんでいいなら、好きにしろィ」となんでもないことのように言う。
 なんでもなくなんかない、これはすごいことなのに。
 胸がほわりとあたたかくなって、口元に浮かぶ笑みをしばらく止められそうもなかった。
(2007/9/13)
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