ギュナイドゥン・カリメーラサス






「ぐはぁっ!」
 その朝、イスタンブルの宮殿に、短い呻き声が響き渡った。
 がばっと寝台で身を起こした男に、のんびりとした声がかけられる。
「……どうした?」
 男は全身汗ぐっしょりで、浅い呼吸を繰り返している。
 数回瞬きをしたあと、眉根を寄せてそのあたりを強く揉むようにした。
「……アシュレに溺れる夢ぇ、見ちまったい……」
 トルコの伝統的なデザート、アシュレは、「ノアのプリン」として名高い。小麦や米に、アーモンドなど数々のナッツ、バラの香り。今でも体にまとわりついているようだ、と男は思った。
 溺れると言うよりは、閉じ込められる、と言った方が正しいのだろうけれど。
「それは……ノアの方舟はこぶねもびっくりだな……」
 再びのんびりした声が、今度はあくび混じりに発せられる。
 そこで男ははたと気づいたように、自分の隣に横たわる人影に目線を転じた。
 その肌の白い少年は、男の腰にまとわりつくようにして、まだ半ば夢の中にいるようだった。
「……ってテメェはなんでここで寝てやがるんでぇ!」
 男は、気持ち良さそうに頬を擦りつけてきた少年に、容赦なくチョップをお見舞いした。
 途端、少年の夢心地は一気に失せたようで、二人して相手に危害を加えようと、狭い寝台で揉み合いが始まる。
 当然、体格のよい男の方が勝ち、少年が寝台から転げ落ちそうになったところで、攻撃の手を緩めた。
 しかし少年はその機を利用して、男の顎にアッパーをかまし、最終的には男の腹の上に立っていた。
「痛ェ痛ェよ、乗んじゃねぇ!」
「最初に暴力振るったのは、そっち!」
「わかった! わかったからどいてくれや!」
 情けない声に、少年はえいやっとはずみをつけて飛び降りる。見ているこちらが痛々しくなるようなそれは、まったく容赦のないものだった。
 男はしばらく、殺意とも言えるほどの憎しみをこめて少年を睨んでいたが、やがて争いが不毛なことに気づいたらしい、軽く肩をほぐすと、朝の身支度を始めることにした。
「ったくテメェは……油断もスキもねぇな」
「せっかく気持ちよく寝てたのに」
「だから、人のトコで寝んなテメェは!」
「どこで寝ようが俺の勝手だ」
「神聖ローマでも行ってそれ言ってみろ」
 男が常につけている仮面を、今日も装着しようとしたところ、どこにも見当たらない。
 はっと嫌な予感がして背後を見やれば、やはり。
 少年が顔につけたり離したりして、遊んでいる。
「おい、遊ぶな」
「これ……つけると、視界狭くないか?」
「そりゃ広くはならねぇだろうよ。ほら、返せ」
「足元とか、全然見えないじゃないか」
「だからなんだってんだぃ、金でも落ちてるわけじゃあるまいし」
 少年から仮面を取り上げて、いつものように被る。
 さて腹ごしらえでもするか、と調理場へ向かうと、背後をとことこ少年がついてきた。
「俺のこととか、ちゃんと見えるのか?」
「テメェはやかましいからな」
 男が言うと、少年はすかさず男の背後に蹴りを入れる。
「ってぇな! そういうところがやかましいってんでぇ……」
 見えないはずがない、と男は言う。
 少年は満足したように、ぽん、と男の背を叩いた。
「パンでいい」
「『で』ってなんだ『で』って! 言っとくが俺ぁテメェの飯は作らねぇぞ!」
「監督責任」
「かっ……! ……ガキぃ、そんなのどこで覚えた……」
「この前フランスが言ってた」
 同盟国の名を持ち出され、男は忌々しげにため息をついた。

 *

 はっ、と顔を上げると、会議机が並んでいる。手元のパソコンには、うとうとしながら打ち込んだからだろうか、意味不明な文章が踊っていた。
「おはよーっ、ドイツー!」
「ああ、おはよう、イタリア」
 朝から会議は辛い。
 あくびをかみ殺して、意味不明な文章を削除していた男の耳に、朝からハイテンションな声と、朝から堅っ苦しい声が聞こえてきた。
「なんだよイタリア、早いな」
「フランスおはよー」
 ヨーロッパ諸国ばかりが集まるこの会議で、男は少し浮いた存在だ。それでも、自ら連携に入れてくれと言い出した男を気遣ったのか、男の前を通り過ぎる誰もが、同じように「おはよう」と挨拶していった。
 今日こそいけるかもしれない、諦め半分、期待半分で、男は会議に臨むべく、襟を正す。
「そろそろ予定の時間だ、始めようか」
「まだ全員揃ってないって、ドイツ」
「遅刻は認めん!」
「なに言っとるん、時間なんて目安やん、目安」
「ヴェー、そうだよー、それまでおしゃべりして待ってよー」
 開始時刻をめぐってその場が紛糾し始めたその時、ざわついた空気をぶち壊すかのように、一人の青年が悪びれたふうもなく、議場に入ってきた。
「あ、おはよーギリシャ!」
「イタリア……おはよう……」
 おはよう、おはよう、と、並んだ諸国と挨拶を交わしつつ、のんびりとその青年は近づいてくる。
 パソコンに目を落としながら、男は内心舌打ちをした。
 対する青年は、自分の前まで来ると、無言でため息をついた。
「……朝から人の顔見てため息つくなぃ」
 他国を憚って、小声で抗議をすれば、これまた小声で返される。
「……もう、諦めれば? ヨーロッパじゃないんだし」
「なっ……!」
 さらり、と縁起の悪いことを言って、青年はまたおはようを繰り返しながら去っていく。
 もう一度舌打ちをして、会議の資料に目を通す。
 青年がまったく自分とは関係のないところで振り撒く「おはよう」の声が、妙に耳慣れず、それでいてどこか心地いい気がした。

 ――そういや俺ら、昔っから「おはよう」なんて挨拶、交わしたことないわな。
わかりにくいですが、前半が昔で後半が現代の話。
「ギュナイドゥン」はトルコ語、「カリメーラ サス」は現代ギリシア語で「おはよう」の意、らしいです。
でも、ちょこちょこっと調べただけの安易なタイトルづけなので(見ればわかる)、目覚めたときの挨拶というよりは、「こんにちは」の午前中バージョンみたいなノリだと思います。

うちのトルコさんは生まれながらにしてツッコミなんじゃないかと思って書いたもの。天然ボケ希(失礼)と天然ツッコミ土ですよ、うわ!
隣でギリシャが寝てるというオイシイ状況を棒に振ってまで、ついツッコまずにはいられない悲しい性、という(笑)。でも、別にトルコさんはそういう邪まなことあんまり考えてなさそうなので、本人は残念に思ってはいないのかもしれません。
むしろ、ツッコむことによって始まる言い合いとかの方が好きなのかも。

ギリシャは人肌がないと眠れないとかだったらかわいいなー。いや……ギリシャさんの場合、逆にそれはかわいいのか? うーん……って私はどんだけギリシャさんをエロ大使だと思っているのか。
「確かに回数は多い……けど、内容は普通だから」と、ムッとした様子で言うギリシャさんが忘れられません。でも、やっぱりイギイギはあくまで変態大使であって、健全エロ大使は断然ギリシャさんだと私は思う。
とりあえず、トルコの布団にもぐりこんだことに、特に他意はないのは確かだと思います。
人肌を求めるのに他意などない、それがギリシャクオリティ。
(2007/9/6)
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