「まったくどこを遊び歩いていたんだ?」
 国王の顔を見た瞬間、懐かしい記憶がフラッシュバックして、思わず立ちくらみを起こした。
 思い出した顔は、断頭台の露と消えた、あのときの。
「……申し訳ありません」
 散った鮮血。
 鈍い音。
 うつろな目。
 虚空を見つめた。
 市民の喝采。
 吐きそうになるのをこらえて、笑顔を作る。
「余だけでは貴族たちがうるさくてな、お前がなだめてくれないと」
 アメリカの家でも、本国から届く手紙や書類、新聞、そんなものはアメリカと一緒にチェックしていた。今がいつなのかもだいたいわかっていたし、本国で何が起こっているのかもだいたいわかった。しかしいざ本人を目の前にすると、比べ物にならない現実味が迫ってくる。
「ですが陛下、議会を解散してしまった今、彼らも不満を噴出する場所がないので……」
「そんなことは知ったことか。そもそもイングランドの王は余である。なぜ貴族ごときが、それも下級の連中や郷紳まで、自由に意見しようというのか」
 こんなことを言っていると、今に彼は、その首を刎ねられてしまう。
 諌めようかどうしようか迷って、昔は結局したいようにさせていたことを思い出す。
 ――俺の目的はアメリカを手離さないことだ。余計な歴史はいじらない方がいい。
「……そうですね。では、適当に話をつけて参ります」
「うむ」
 自室に下がって、思わず口元を押さえた。
 胃がむかむかした。
 ――死ぬとわかっていて、殺されるとわかっていて、あの男を見殺しにするのか。
 仕方がないのだ。大きな歴史の流れは、自分にだって止められやしない。
 ほんとは、アメリカをつなぎとめておこうという試みも、途方もなく大変なことに違いなかった。
 けれど自分はそれをしようとしている。
 余計なことにまで構わないことだ。
 肝心なことが疎かになる。
 ――大丈夫、大丈夫。
 いつだって自分は色んなものを犠牲にしてきた。色んなものを見殺しにした。自分でも殺した。
(正しいことをしようって言って何が悪いんだよ! だいたい君は昔から、いい人ヅラして裏であくどいことばっかりやって、結局自分の利益しか考えてないんじゃないか。あぁ、醜い醜い、君のそんなところが昔から大っ嫌いだったよ!)
 アメリカのようにばかな正義論に振り回されたりしない。物事には賢いやり方というものがある。
「あめりか……」
 アメリカ。
 思わず顔を覆った。いつの間にかその頬は濡れていた。
「あめりかあめりかあめりか」
 何かがひどく歪んでいる。
 正しいことが大好きなお前をつなぎとめるために、正しくないことをしようとしている。
 お前にいっぱいいっぱい嘘をついて、必死でお前を目隠しして。
 最後に決壊した、あの春の日。
 ――あめりか、おれはどうすればいい。
 まもなく気まぐれな招集に遭って、ぐったりした顔をさらしたら、国王は珍しく心配そうな顔をした。
「具合でも悪いのか」
「いえ……」
 心配するのは当たり前だ。自分が弱れば、国力が弱る。自分はそういう存在だ。
「ただ……貴族との折衝に疲れただけです……」
 もうやめてください。
 このままではあなたが殺されてしまうだけだ。
「そうか」
 国王は何か考えるようにする。
「大事なお前の気を煩わすとは、まったくどこまでも忌々しい奴らだ」
「そうではなく……」
「なんだ」
「少しは、彼らの気持ちもお考えください」
「考えてどうする。いいか、今我が国は金がないんだ。あいつらの意見なんかいちいち聞いてみろ。税金は払いたくないだのなんだのと駄々をこねて、国が破綻するだけだ。そう、お前が」
「税金を払わせるにしても、もう少しうまいやり方というものがございましょう。確かに陛下のおっしゃることは正論ですが、それをそのまま言ってしまってはだめです」
「王の言うことは聞く。それが正論なら尚更。それができないあいつらに問題があるのではないかね」
 埒が明かない。
 そう思っている国王の考え方を改めさせることなど不可能に近い。イギリスは方向転換を図ることにした。昔から目的のためなら口はよく回る。
「ですが、あちらの気持ちもお考えください。あちらは陛下に比べればただの人。そこまで優れた考えができるわけではないのです。強圧的な態度を取れば気を悪くする。少し甘くしてやれば感謝する。それを、陛下のすばらしい頭脳で操ってやればいいだけのこと」
「面倒くさい話だな」
 いやいやいや、お前の命がかかってるんだって。
 こんな調子で出来る限り国王と元議員たちの間を取り持とうと奔走したけれど、どうにもうまくいかなかった。
 その間にも、二ヶ月に一回は必ずアメリカの様子を見に行くようにしたけれど、どうにも疲れが溜まって、アメリカには何度も心配された。
 ――こんなに小さい子に気苦労を悟られてしまうなんて、なにやってるんだ、俺は。
 そのうちに、スコットランドで反乱が起きたとの報が、イングランドにもたらされた。
 しまった、と思う。
 国王がスコットランドに国教会を強制しようとしたのだ。
 どうして、どうして忘れていたんだ。階段を駆け上がりながら、冷汗がだらだらと額を流れる。
 もうだめだ、国王軍は負けて、これで財政難は決定的になる。
 そうして、国王は殺されてしまう。
 あぁ、やっぱり自分ではだめだった。何もできなかった。
 頑張ったのに。
 俺、頑張ったのに。
 アメリカ。
「どうして言ってくださらなかったのですか」
 ぜえはあと息を切る自分を見て、国王は難しい顔をこちらに向けた。
「何がだ」
「ス、スコットランドに、国教会を――」
「何だ、聞いたのか」
「どうして一言、相談してくださらなかったのですか」
 知っていたら止めた。自分は結果を知っていた。
 そうだ、確かに相談してくれたはずなのだ。そのとき自分が大して止めもしなかったのを覚えている。だから今度は、相談されたら止めようと思っていた。
 どうして、どうして今回に限って――。
「お前は最近余に対して小言ばかりでうるさいから。言えば、またうるさく言うだろうと思った」
 目の前が真っ暗になった気がした。
 ――なんだよ。
 なんだよ、それ。
「もう下がれ。余は反乱の鎮圧に忙しい」
 金がないのに、また出費だ。
 国王は心底忌々しげに吐き捨てた。
「……なんだよ、それ」
「なに?」
 思わず声に出していたらしい。
「逆効果じゃねぇか」
 自分は歴史を変えたくて、一生懸命に国王を諫めていたのに、それが、逆効果になるなんて。
 そんな、――そんな。
「ふざけるなっ!」
 気づけばそう叫んでいた。
 自分が何者かを知らない衛兵が、何か怒鳴っていたけれど、構わず走り出した。
 ああもう、こんなのは八つ当たりだ。
 陛下に向かってなんて無礼な振る舞いを。
 わかっている、わかっているから誰も俺を止めないでくれ。
 自己嫌悪で吐き気がするだけなんだ。
 俺は、何も、変えられないのか。


















(2007/8/21)



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